アメンバー限定公開


図説 伊能忠敬の地図をよむ — 日 記, June 05, 2012Link
伊能忠敬測量隊 — 日 記, June 05, 2012Link

の 「冲方丁『天地明察』は『伊能忠敬の地図をよむ』の流用か?…… (佐藤賢一先生)2010-09-16」 に、リンクが設定されていないことにお気づきだったろうか? これは、この記事が、佐藤先生の承認を受けないと読めない「アメンバー」設定になっているからだ。佐藤先生が、何故この記事を非公開にしたのか?真意のほどは定かではない。

表題だけで、当方も調査し、その後、承認を受けることにした。先ほど、承認されたので、早速拝見させていただいた。論旨は当方と概ね同じだが、問題にしている場所の相違も多数ある。気になる方は、佐藤先生の承認を受けて確認してください。

冲方丁『天地明察』は『伊能忠敬の地図をよむ』の流用か?…… 2010-09-16Link
<測量法について Ⅰ>   梵天、割円八線対数表、彎窠羅針
<測量法について Ⅱ>   火鉢、赤い毛氈、手明かり
<測量旅行出発>      富岡八幡宮
<測量ルートの類似 Ⅰ>  浜松から気賀街道(姫街道)を測って御油に出る
<測量ルートの類似 Ⅱ>  舞子浜、岩屋、福良、鳴門、撫養、室戸、塩飽諸島、赤間関(下関)
              測量隊の隊長(建部/伊能)が共に赤間関で体調を崩す
<測量ルートの類似 Ⅲ>  銚子犬吠埼、地球は丸い
<測量中に受けた妨害>   加賀藩

まだあった流用箇所:『天地明察』 2011-02-16Link
◎庭の木を伐る
◎「士気凛然、勇気百倍」

注:何度も言います。このリンクはアメンバー限定公開です。閲覧には佐藤先生の承認が必要です。

 

— posted by nitobe at 09:35 pm   commentComment [0] 

 

冲方丁『天地明察』は『伊能忠敬測量隊』の流用 #2


====以下「伊能忠敬測量隊」初版P104L13より引用
いろいろの経緯があったが、第二次測量では相模、伊豆沿岸から房総半島を経て下北半
島まで本州東海岸を測ることになる。お手当は少し上がって一日一〇匁になっただけで
あったが、宿泊と人足の提供について、道中奉行・勘定奉行から沿道の村々に先触れが出された。勘定奉
行ら五人が印を押し、人足二人、馬一匹、長持一棹の持ち人足(四人)を、お定めの賃銭を受取って提供
するよう命じている。さらに追って書きで「この触れは昼夜を限らず、早々継ぎ送り、請け書を添えて最
後の村から最寄の幕府代官に返すように」と指示され、村々へは幕府代官が伝達した。代官は添え状をつ
け「お先触れが出ているから、刻付で早々継ぎ送るように」と求めている(『測量日記』)。刻付の廻状は、
たとえ深夜でも受信すれば、受信時刻を記し、自分用の写しをとって、すぐ人足に持たせて次の村に送ら
なければならない。

====以下「伊能忠敬の地図をよむ」改訂増補版初版P58UL1より引用
第2次測量———本州東岸への旅

 第1次測量で実績を認められた伊能隊の待     【UL7】
遇は少しだけ昇格した。前回の旅行で忠敬は、
自分の「先触れ」に幕府・勘定奉行の部下の
勘定衆(旗本)からもらった「添え触れ」の
写しをつけて、宿泊と運搬用人馬の提供を求
めていた。今回は勘定奉行から直接、幕府代
官経由で沿道に対して先触れが出された。手
当も第1次測量の1日銀7.5匁から10匁に昇格     【ML1】
した。
 先触れには「この触れは昼夜を限らず急い
で継ぎ送り、請書を添えて最終の村から最寄
りの幕府代官に返せ」と書かれていた。受け
取った村は、昼夜を限らず深夜でも内容を写
しとり、お請けする旨を記入して、ただちに
次の村に送らなければならない。非常に強い
指示である。お金よりもこの通達の威力のほ
うが大きかった。この命令により、村々では
村役人が村境まで出迎えて案内をした。

====以下文庫本「天地明察」(上)初版P201L11より引用
 観測隊が訪れる土地には先触れが出され、幕府の今回の事業を援けるため、各藩と
村々が、昼夜を問わず伝書を書き写して道中の各宿営地へと派遣される。
 まがりなりにも幕命を受けての行動であるので、村役人の他、町奉行の者や、藩が
派遣した附き廻り役もやって来て、ともに宿営地へ随伴した。

こりゃ、受け取った方が迷惑だわ。先触れ。
「観測隊が~」・・・それにしても、日本語が変だ。と思うのは私だけだろうか?何が「派遣される」のか、私にはさっぱりわからない。加齢による認識力低下でなければよいのだが・・・。

====以下「伊能忠敬測量隊」初版P145L8より引用
・・例をあげると、測量中の私的荷物の中で一番扱いが面倒だったのは大刀である。あまり離れるわけに
いかないし、一人に何本も持たせるわけにもいかなかった。測量風景を描いた図では、測量班のすぐ近く
に村人足が一本ずつ刀を持ってしたがっている絵が出てくる。

====以下文庫本「天地明察」(上)初版P200L7より引用
 腰の二刀のうち、大刀中間の一人に預け、脇差しだけでいられたのがせめてもの
救いである。

ただでさえ荷物が多いのに中間大刀を持たせるとは何様だ?中象限儀でも馬二頭なのに、大象限儀を運んでるんだぞ!それにしても、140年経つと、皆、春海の様な腑抜けた武士に成り下がってしまうのか?嘆かわしい。

6/16追記:
「伊能忠敬測量隊」が刀を持たなかったのは、羅針盤への影響を考慮したためだったらしい。
====以下「伊能忠敬測量隊」初版P141L13より引用
 また、どのくらい効き目があったかわからないが、
羅針を見る者は大刀を身につけず、竹光の小刀だけ
を帯するようにした。

 

— posted by nitobe at 09:28 pm   commentComment [0] 

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