Title  グリーン・カード  緑の札  ----時代----五十年後----  懸賞當選映畫小説  Note  大阪朝日新聞 夕刊  昭和五年七月二十日〜  Author  石原榮三郎 原作  小島善太郎 畫  Subtitle  プロローグ  Description 「たしかにどこかで見たことがある」歐亞をつなぐ旅客飛行機の一室である。  タキ・ハルキ博士は、自分の傍に腰かけてゐる女性の肉體を肩先に感じながら、さう思つてさつきからその記憶を呼び起さうとしてゐた。大きな船に乘つてゐる時に感じるやうな微動が、ある時はヱンヂンの響のやうに、またある時は、浪の鼓動のやうに博士の身體に傳はつて來た。その度ごとに傍の女性の身體が博士の肩先に肉薄した。 「モスコーからか知ら、それともヨーロツパからか?」  博士はどうしても思出せないので、今度はその女の乘つて來た塲所を想像し始めるのだつた。  タキ博士はこの飛行機に上海から乘込んだ。毎週一回づゝ診察に行くことになつてゐる中華聯議會附屬病院からの歸途である。  ロンドン東京間上りA線急行旅客機は、上海へ着くまでには、パリ、べルリン、モスコーの三箇所にしか停つてゐない。そして博士が乘込んだときには、その女は、何か小説らしいものを膝の上にひろげて讀み耽つてゐた。 「失禮します」  博士がさういつて彼女の傍に腰をおろした時、チラと見上げたその美しい顏、何よりも美しい黒ダイヤのやうなその瞳に、博士の記憶がかつたのだ。 「何處で逢つたらう?」  博士はもう一度記憶を辿つた。別に何の用亊もない飛行機の上では、大阪へ着く二時間半ほどの間かうした漫然とした想像に耽けることは、却つて博士を樂しませた。博士は執拗にその女の上に關心を持ちつゞけた。 「確かに東京で逢つたことがある」  博士は漸くその邊まで記憶の緒口をたぐり寄せた。 「病院の患者だつたかな」  と思ひついた時、 「イヤ、すると東京ではない、上海だつた、いま出發して來た附屬病院でだつた」  と、今度は稍ハツキリ思ひ出せて來た。博士はボケツトから葉卷を取り出して火をつけた。こゝまで考へ出して來ると、もう占めたものだ、あとはもう一息、麻雀で聽牌するときの氣持ちのやうに、博士は何とはなしに愉快になつて悠々と紫の煙を輪に吹いた。  博士といふ肩書、それも理學博士と醫學博士と二つまで肩書を持つてゐるタキ・ハルキではあるが、しかし彼はまだ四十には二、三年間のある若い學者である。  博士は窓の外へ眼をやつた。  上海を出發して何分たつたらうか、夕闇が次第にその翼をひろげて來る黄海の上を、まつしぐらに飛んで行く飛行機の後方遙か彼方には、まだ上海の空を彩る青や赤のネオンライトが、まるでお伽の國の宮殿のやうにチラチラしながら、美しくかゞやいてゐるのが眺められた。 「まあ!ほんたうにきれいですわね」  突然このとき隣の女性が、博士に呼びかけた。 「素晴らしいですね」  反射的に博士は返亊をした。  しかしその返亊をするより前、博士は女の聲を聞くと同時に、 「あゝ、あの時の女だ」  と、ハツキリとその記憶を呼び起した。  琥珀の玉をかち合せたやうな、美しいうるほひのある聲だつた。 「上海は晝よりも夜の方が美しいですね」  タキ博士は、話の緒口を見つけて話しかけた。 「あんなにネオン・ライトを好む市民は、全世界どこへ行つてもないでせう、赤や青や、全く原色のかゞやきは、とても素晴らしい魅力を持つてゐるらしいですね」 「さやうでございますか、妾上海は始めてゞすが、全く美しい景色ですわね」  彼女は答へた。 「あなた、上海は始めてゞすか?」  タキ博士は、自分の發見を裏切られて、意外に感じた。 「實はさつきから思出してゐたんですが、確かに僕はあなたと、上海でお逢ひしたやうに思ふんですが」 「まあさうですかしら、失禮でございますがどちらで?」 「日華聯議會附屬病院で、確か去年ごろだと思ひますが----」 「まあ、それぢやお人違ひでございますわ先生、妾本當に上海へはまだ來たことがないんですもの」  彼女はさういつて、朗らかな笑顏を見せた。 「さうですかなあ、しかし僕は確かに貴女だと思つたが----」  タキ博士は一寸失望した。去年の冬ごろだつた。丁度博士が診察に來てゐたとき突然胸部をピストルで撃たれたといふ患者が、病院にかつぎ込まれた。  外科の方を受け持つていたタキは、必然その患者の應急手當を行つた。  患者は妙齡の美人だつた。ピストルの彈は急所を外れ、距離も遠かつたと見え、深くは侵入してゐないで、直ぐとれたが、妙齡の美人がピストルで撃たれたといふ亊件は、病院でもかなりの話題を與へた。 「先生、大丈夫でせうか」  さういつた聲、その時の瞳、その二つに博士の記憶は刻まれたのだつた。 「大丈夫、二週間もすれば退院できますよ」  タキ博士はさういつて病室を出た。ところが、その夜のうちに、その患者は行方不明になつてしまつたのである。  狙撃された原因は?  何故行方不明になつたか?  しかしそんなことは、博士らの知つたことではなかつた。そのまま忘れてしまつてゐたが、フトこの飛行機で逢つた女性、それがあのときの患者だと、博士は思ひ出したのだつた。  だが、この女性は上海へは行つたことがないといふ。  すると博士の記憶に間違ひがあるのか、又はこの女性に似た他の一人の女性があるのか、それともこの女性が嘘をいつているのか、タキ博士は一寸話の腰を折られた形だつた。 「さうですかね。するとよく似た方だつたんですね。僕はあなたにちがひないと思ひましたよ」 「まあさうですか、妾に似たお方が、先生とおちかづきなんでございますのね、では妾もその方御同樣、先生のお近づきにしていたゞけないでせうかしら」  彼女は、小形のハンドバツグから名刺を取り出して、タキに渡した。 「イヤどうも、無論よろこんで----」  博士も名刺を渡した。  ミナミ・ヒカル----名刺にはそれだけ書いてあつた。 「ヒカルだなんて、男のやうな名前でせう、でも妾、本當はやさしいんですよ」  ヒカルはさういつてニツと笑つた。初めの態度とはまるで變つた媚びのある姿態だつた。 「どちらへゐらし【や】つたんですか」  博士は問うた。 「べルリンヘ行つてましたの、三月振りに日本へ歸るんですわ」 「ホホウ、三月、ずゐぶん長い旅だつたんですね」 「ヱヽちよつと。でも時々それ位の旅はすることがあるんですわ、妾とても放行が好きなんですの」 「ぢや遊山旅行といつたものですね」 「アラ、先生、そんな呑氣なんぢやないんですの、これでも仕亊を持つてるんですよ」 「さうですか。失禮ですが御職業は?」 「何に見えて?」  ヒカルは、媚びのある眼を博士の眼に集中して、ニツと笑つて見せた。 「映畫女優ぢやないかな」博士はフトそんな氣がした。  さういへば、さつきからどこかで見覺えのあるやうな氣がしたのは、或ひはスクリーンの上で見た印象が殘つてゐるせいかも知れない。さう度々映畫を見に行かないタキには、無論女優の名前などに覺えはなかつたが、その顏、美しい瞳はクローズアツプとなつて、タキの頭にその印象を刻みつけたのかも知れない。すると上海の病院で逢つたといふのは思ひちがひだつたか。 「お判りにならない?」 「どうも----」  博士は言葉少なに答へた。と彼女はその口を博士の耳元へ持つて來てさゝやいた。 「…………」 「ヱツ!」  あまりに近づいたヒカルの口から、耳元へ熱い息を感じたその驚きよりも、いまヒカルが、ドイツ語でさゝやいた言葉の方が、タキ博士を一層驚かした。 「ホホ……吃驚したでせう、誰でも吃驚するんですわ、餘り妾の態度が蓮つ葉なもんだから。でも先生、妾の生れつきなんだから仕方がないわね。だつて、誰も無邪氣だとは思つてくれないんですもの。」  ヒカルのいふのは、彼女は、べルリン大學の電氣科の學生だといふのだ。そして現在高壓電氣學では、世界第一の權威者である、ハインリツヒ教授の教へを受けてゐる一人だといふのだ。 「判つたでせう、だから妾、教授と一しよに、あちらこちらへ旅行するんですわ。そして見學したり研究したりしてるんですの」  さういつてヒカルは、さつき博士が小説だと思つてゐた本を示した、それはやはり電氣學の難かしさうな原書だつた。  さういへば、ヒカルの態度は、蓮つ葉なやうではあるが、考へ方によつては無邪氣にちがひなかつた。媚を賣つてゐるやうに見えるのは、こつちで、不純な氣持ちが働きかけてゐるからで、虚心坦懷で見れば、ヒカルのあけつ放した態度には、大學の學生としての無邪氣さがある、と思へぬこともなかつた。  タキ博士はちよツと赤面した。 「學生だつたんですね。そいつは失禮しました。職業婦人かと思つたもんだから」 「アラ先生いゝんですわ、誰だつてさう思ふんですもの、それに妾先生のお名前は前から聞いてゐたんです、どうぞよろしくね」 「そして、今度は? 休暇ですか?」 「日本へ歸るの? ヱヽ、休暇なんですわ、三月位はひまがあると思ひます、だからその間、ゆつくり休養したいとも思ふんですけれど、實は少しは野心もあるんですわ」 「ホホウ、野心つて?」 「ヱヽ野心よ。とても素晴らしい野心なの、話して見ませうか」 「あなたの野心、それは面白さうですね」  博士がさういつた時、食堂のボーイが食亊の仕度ができたと通知して來た。  乘客は殆ど全部----中には早めにすまして來た人と見え殘つてゐる人もあつたが----立上つて食堂の方へ出かけた。  食堂は客席の二階に當るところ飛行機の中とは思ヘぬほど華美をつくしてあつた、少し天井が低い位のものだつた。  客室より更に窓が廣いので、外部がほどよく眺められたが、もうスツ力リ夜になつて、何も見えなかつた。  長方形の卓子が二列、向ひ合つて、乘客がおよそ百人位もならんで食亊を始めた。  ボーイがその間を飛び歩いた。  博士とヒカルとは、こゝでも向ひ合つてすわつた。  彼女は、さすがにこゝではその野心は語らなかつた。また、博士と二人切のときのやうな姿態も見せなかつた。  あたり前の社交的な態度で、隣り合せの乘客と、世間話のやうなものもした。  乘客の半分ほどほ日本人だつたが、あとの半分には、中華の人や歐米人が乘つてゐた。  ちやうど彼女の隣には、アメリカ人と中華人とがすわつてゐたがヒカルはどちらへも巧なヱスペラントでいろ/\な話題をこしらへては話し合つてゐた。  世界語となつたヱスペラントを、中華人はよく語つたがアメリカ人は少し不得手に見えた。  彼はとき%\行き詰つて微笑した。  さういふ時にはヒカルは早速英語ではなした。なか/\上手だつた。 「ヒカルさんは何ケ國話せます?」  タキ博士は聞いて見た。 「イヤですわ先生、そんなこと、でも英佛獨三ケ國位なら、少しづつ」  さういつて少し羞にかみを見せた。 「ホヽウ、いまどき珍らしい語學の天才ですね」 「まあ御冗談ばかり」  全くタキ博士のいつたやうに、ヱスペラントが普及したこのごろでは、昔のやうに何ケ國もの言葉を覺える必要はなかつた。  日常の會話はもとより、どこの大學でもヱスペラントを用ひたので、語學といふ學科は殆ど廢止され、ホンの特殊の人達の間にだけしか研究されなかつた。  同國人の間ですら、ヱスペラントで話し合ふやうな時代に、ヒカルのやうな若い女性が、三ケ國もの言葉を知つてゐることは、本當に珍らしかつた。  食亊がすむと、食堂ではテレビジョンが映冩された。  まだ上海放送局のもので、あまり面白くなかつたので、ヒカルと博士は客席へかへつて來た。 「さあ、野心のつゞきを伺ひませうかね」  博士は葉卷をくわへながらいつた。 「大變ね、野心々々つて、でもさういつたつて、大したことぢやないのよ、少し大袈裟にいつただけなのよ」 「警戒し出しましたね」 「ヱツ!」  ヒカルは吃驚してタキ博士を見た。  しかしタキが無心に笑顏を見せてゐるので彼女もまた笑顏ご答へた。 「何も警戒なんかしやしませんわ。あのね妾の野心つていふのは。これなんですの」  ヒカルはハンドバツグの中から一通の手紙を取り出して見せた。  タキはその手紙の宛名を見てオヤと思つた。 「ハナド・アキラ」  それはタキ博士の親友で、若い科學者として世界的に知られてゐる彼にちがひなかつた。  手紙の差出人はハインリツヒ教授だ。 「この手紙をどうするんです?」 「つまりね、この手紙は私の先生から、ハナドヘ宛てた妾の紹介状なんですの、ハナドはやつぱりハインリツヒ教授の門下生だつたんですわ、だからつまりは妾と同門といふことになるでせう」 「なるほど」 「だから妾、先生の紹介でハナドに逢ふんですわ」 「それがどうして、あなたの野心なのです」 「だから大袈裟にいつたゞけなのよ、御承知の通りハナドは世界的に知られた科學者でせう、そしていま大變な高壓電機の發明にかゝつてゐるつてこともよく知られてゐるでせう、つまり妾がハナドを訪ねて、その發明の手傳ひをしやうつていふんですの」 「へえーあなたが----」 「ヱヽ。だからずゐぶん野心といつていへないことはないでせう」 「なるほどね」  タキ博士はいまゝでこの女性とほんの旅のつれ%\として樂しみながら話し合つて來た。  ところが、いま彼女がハナドの助手としてあの發明の手傳ひをする、といふ話を聞かされてからは、いまゝで冗談半分、からかひ半分に接してゐたのが恥かしいやうな氣がした。  ヒカルといふ、ある時は映畫女優かとさへ疑つた女性が、世界的に評判されてゐるハナドの高壓電機のアシスタントを志望して日本へ歸る途中なのだ。  これは素晴らしい女性である。 「それは全く素晴らしい野心ですね。そしてハナドはもうそれを承知してるんですか」 「多分、でも先生から電報を打つていたゞいた筈ですわ、妾の出發するときまでには、まだ返亊はなかつたのですけれど、ハナドから先生のところへ以前良い助手があつたら世話してほしいと云つて來てゐたさうですから、大丈夫と思ひますわ、妾そりや良い助手なのよ」  さう云つてまた笑つた。  美しい顏が笑ふとなほ魅力を生んだ、美しい白い齒が見えるからだつた。 「そりやハナドもきつとよろこぶでせう、あなたのやうな美しい助手だつたら」 「アラ、先生、さういふ意味でいつたんぢやありませんわ」 「イヤ、それは判つてをりますよ----すると僕も今後ます/\あなたとお逢ひするチヤンスが多くなるといふわけですね」  ニヤリとしてタキがいふ。 「アラ、どうしてですの?」  ヒカルは小首をかたむけて、いかにも不思議さうな顏つきをして見せた。  タキ博士が何かいはふとしたとき、突然窓の外にバツと明るいサーチライトの光源が光つた。 「オヤ!」  と思つたのは博士一人ではない、乘客は皆その光源を認めてガヤ/\騒ぎ始めた。 「まあ、なんでせう?」  ヒカルも博士の腕をとらへながら窓の外を見やつた。  乘務員の部屋では、係員が望遠鏡を手にして焦點を合せた。  しかし焦點を合せるまでもなく、サーチライトを明滅させながら、近づいて來るのは明らかに一台の小型の飛行機にちがひなかつた。  近づくに從つて明らかに機影が人々の眼に映つた。 「空の追はぎぢやないか」  誰かそんなことを叫んだ。 「さうかも知れない」  人々は、吾知らずポケツトのピストルを握つたことであらう、しかし次の瞬間、その飛行機の機體に緑色の灯がPといふ小字を表示した。同時に赤色の灯をしきりに明滅させながら、ます/\近づいて來た。 「警察機だ」 「ストツプを命じてゐるんだ」  乘客はやれ/\と思つた。  乘務員が傳へて來るまでもなく人々はPといふ字が、警察の意味を表はし、赤字の明滅燈が、ストツプを命じてゐることを知つてゐた。 「しかし何の亊件だらう、どうしてこの旅客機にストツプを命じたのだらう」  それが次の疑問だつた。  一時安堵した乘客は、飛行機が空中で停止したのも知らずに、またガヤ/\いひながら、その疑問を解かうとした。 「何か起つたんですね」  さういつてヒカルを振返へつたタキ博士はハツとなつた。  さつきまであんなに元氣だつたヒカルが、顏を眞蒼にして放心してゐるやうな態になつてゐたからだつた。 「ヒカル、どうかしたんですか」  博士は思はず聲を大きくした。 「イヽヱ、何でもないんです、あんまり突然で吃驚したもんですから」  ヒカルは何でもないことを説明するやうに笑つて見せた。  しかしその笑顏は淋しかつた。 「そんならいゝですが……。あなたに似合はないことですね」 「本當に----でもあまり思ひがけないことですもの」  警察機は旅客機に横づけになつた。  四人の警官が乘り移つた。  しばらく、乘務員室で何か話しあつていたが、間もなく客室へ現はれた。 「突然お騒がせしてすみません。實は一寸調べものがありますからしばらく御容赦を願ひます、御 迷惑ですが、各自の所持品を、一應あらためさせていたゞきますから」  さういふなり、四人の警官は電光石火、旅客の荷物を片つぱしから、開けさせて中を調べた。  ポケツトにあるものも出させて調べた。  次から次へ、百人ほどの旅客はみんな調べられたが、思ひなしか日本人の調べは、簡單に、外國人の調べは嚴重に見えた。 「イヤどうも御迷惑です」  タキ博士の身分を證明する切符に眼を通したひとりの警官は、さう挨拶したゞけで博士の荷物を調べようとはしなかつた。 「御連れですか」  ヒカルを指さして聞いたとき、博士はちよつとヒカルと顏を合せた。博士は思はず「はあ」といつてしまつた。 「ぢやあ、----」  警官はヒカルの荷物も調べなかつた。  調べは終つた。  何にも變つたことは發見されなかつたらしく、警官は乘客に挨拶をして乘務員室に退いた。 「何か亊件ですか」  航空長が質問した【。】 「大きな聲ぢやいへないが、最近某國からスパイが入りこまうとしてゐるのです。それがけふ、あすといふしらせがあつたから、かうやつて一々調べてゐるわけです」 「それで----」 「この飛行機ぢやないらしい。どうもそれらしいものが發見されないんです。然しこのことは貴下だけの腹にをさめておいて下さい」  警察機は機體を離れた。  旅客機は再び驀進をつゞけた。見る/\二機はスツカリ見えなくなるまで隔たつてしまつた。 「やれ/\とんだ目にあつた」 「本當ですね。だがこんなことも單調な旅行には却つて話題ができて良いもんですよ」 「さうとでも思はなけりや、やり切れませんよ」  ひとしきり客室の方では話がはづんだ。  ヒカルも乘客の華やかな氣分に釣り込まれてスツ力リ元氣を取戻してゐた。 「考へて見れば、いゝ經驗でしたわね、妾こんなこと始めてゞせうだから面食らつちやつて----」 「僕だつて始めてゞすよ、だがあなたをすつかり僕の連れにしちまひましたね」 「本當に----御迷惑でしたでせう、だつて私が何かいはうとしてゐる間に先生がさう仰しやつたんですもの、でもおかげで妾荷物を荒されなくつていゝ鹽梅でしたわ」 「さうでしたね。何かの役に立つものですね。僕のやうなものでも」 「ありがたうよ、改めてお禮を申しますわ」  こんなことで時間が早くたつた。窓の外には、日本の灯がチラチラと見え出した。 「おや、もう日本に來ましたよ」 「何だか早く着いたやうな氣がしますわね、あんなことがあつて時間のたつのを忘れたからでせう」 「僕も、あなたのやうなお連れがあつたんでずゐぶん愉快な旅行をしましたよ」 「いやな先生、御冗談ばかり」 「かも知れませんわね、妾だつてさうですの。----それはさうと、さつきのお話のつゞきはどうなりましたの」  ヒカルは急に思出したやうに言つた。 「話のつづきといふと?」 「アラ、もう忘れて? そら先主と妾とが度々逢へるだらうといふお話よ」 「あゝあれですか、何でもないんですよ。つまりあなたがこれから訪ねて行かうとしてゐるハナドは僕の友人なんです。だからあなたがハナドのアシスタントになれば、僕がハナドを訪ねて行く度逢へると、つまりそれだけの話なんですよ」 「まあ、それぢや先生とハナドとはお友達なんですか、そして御親友なの」 「さうです」 「さうですか、まあなんてうれしいことなんでせう、妾、同時に二人も尊敬するお方とおちかづきになれるんですわね」 「尊敬するとは恐縮ですな、僕はハナドとはだいぶちがひますよ」 「だつて先生もずゐぶん有名な方ですわ----おゝさうだ、ねえ先生あなたハナドに妾の紹介状を書いてくれない?」  ヒカルは急に眼をかゞやかせた。  Subtitle  若い科學者  Description  〃吾等は信仰と思想を失つた獸である。吾等の信仰と健全な大和民族の思想は醜惡な慾望に激成された熔礦爐に叩き込まれて亡失した。吾等は一枚の双紙のやうにこの人生を訂正することが出來ないであらうか。一九八〇年の吾等の生活樣式を訂正した科學文明の進化! キカイは大自然の凡ゆる性能を訂正した。だがキカイは獸となつた人生を訂正し、吾等に健康な信仰と思想を與へたであらうか……?〃  これがこの物語の序詞である。「緑の札」はこのタイトルを綴る物語だ。     ×  いま日本の空にかゞやける星輝として、科學文明の世界にさんらんたる存在を示してゐる若い科學者ハナドアキラも、また大自然のあらゆる性能の訂正者として、一役を買つてゐた。  彼は日本の産業都市オオサカにその研究所を置いてゐた。  それはあらゆる機械を産業のために要求する都市に最もふさはしに存在であつた。  彼は堂々たる研究所をブルヂヨアのみの住む地上街の一角に持つてゐた。  その昔研究者學者といへば貧乏の代名詞のやうになつてゐたころとはちがひ、このころは、あらゆる科學界の革命に志す研究家は國家の保護を受けて十分に惠まれた生治を營むことができた。  しかし彼の研究所は國家の保護を受けていない。  彼はこれまでに完成した二三の發明によつて十二分の資産を貯へ、いろ/\な施設の完備した研究所を建てたのだつた。  研究所は地上街の中央部からだいぶ郊外に近い公立グラスパークの附近にあつた。  グラスパークは七つの人造光線から化成した強大な光線を持つてゐる人工陽灯----またの名をZ光線と呼んでゐる----の充滿したグラスハウスの中に作られた昔の温室のやうな人工公園である。  そのグラスハウスは四つに分れ、春夏秋冬どの季節でも好むところへ、人々は午後の散歩を樂しむことができた。  アキラはいまいつもの通りこの四つのグラスハウスを順々に通つて午後の散歩を終へて出て來た。  アキラは一日の疲勞をたゞこの散歩によつてのみ瘉やすことができた。そして彼はそれで滿足してゐた。  間もなくアキラは自分の研究室へ歸つて來た。  研究室には隅にかなり大きな變壓機がそなへつけてあるのを筆頭に、奇怪な形態をしたさま%\な機械や模型類が、中央の大卓子を中心にして一ぱいにならべられてあつた。  部屋の一隅の大卓子は作業塲とも見られる。そこには小型の電氣モーターが備へつけられ、ラヂオの室内アンテナ樣のものや、そのほかいろ/\な電線めいたものが卓子の正面の壁に蜘蛛の巣のやうに複雜な感じのする部屋だ。  中央の卓子は專ら設計圖が引かれるところだ。  アキラは中央の椅子にドツかと腰をおろして、ホツと一息ついたが、しばらくして又立上つて部屋を出た。  研究室から出たアキラはすぐ隣室の書齋と應接間を兼ねた瀟洒な部屋へ來た。  そして部屋の片隅のソフアに身體を横たへ仰向きになつて天井を眺めた。  アキラはいさゝか疲れてゐた。本當をいふと彼の新しい發明はもう完成したのだ。  理論の上からも設計の上からも模型の實驗からも、一つとしてその發明の失敗を物語るものはなかつた。  殘された問題はたゞ本式に實驗して見ることだけだつた。そしてアキラは無論その成功に絶對的の自信を持つてゐた。  仕亊の完成、これがアキラに疲れを覺えさせてゐるのに違ひなかつた。  彼は長い間苦心した發明の完成したことにまづ喜ぶよりも疲れを覺えた。  〃いつ實驗をするか----〃  その日を待つてゐる間、アキラは毎日ブラブラしてゐたが、その間の方が發明に寢食を忘れてゐたころよりは一そう疲れた。  きのふもおとゝひも、そしてけふも、アキラは散歩から歸るといつもソフアに寢ころんでひるねを貪つた。  憂鬱なひるねだつた。大きな仕亊を仕遂げた人間が毎日ひるねをする、そのほかには何の仕亊もない、といふやうなことは、全く憂鬱なことだつた。----がしかしその憂鬱には原因があつた。     ×  しかしそれを語る前にまづアキラの新しい發明といふのを物語らう。  アキラの完成した仕亊といふのは高壓電氣の無線輸送である。  電氣の無線輸送は從來しば/\試みられてはゐたが、その距離の短いのと、電力の小さいことのために、また十分に實用に供せられる程度にはなつてゐなかつた。  アキラは送電機と變壓機と受電機の三點にわたつて新しい研究を完成した。  その結果、發電所は全地球の三分の一までは完全に電力を無線輸送することができる。  發電所の輸送機から八方に發散する電流は受電機に感應し、更に變壓機によつて、その電力が數十倍に強く變電されて發動機に導かれる。----といふのだ。  電化時代、無線時代にあつてもこの發明の完成は革命的なものだつた。  この發明のために市街の地上地下に林立する電柱や無數の電線は完全にその姿を消してしまふの だ。  自動車、飛行機、飛行船、電氣船などは完全に燃料の心配から救はれるのだ。  ラヂオの電波を調節するやうに、それらの機關は波長を調節しておの/\發電所から發送する電力の無線輸送を受け、それを各機關に備へつけた變壓機によつて擴大し發動機に導くことによつて、素晴らしい性能を發揮することができるのである。  それは五十年以前、無電で沖合の軍艦を操縱することができて狂喜せしめた時代から、世界各國の電氣學者が狂奔して目ざしてゐた發明だつた。  それが日本の若い科學者ハナドアキラの手によつて完成されたのである。     ×  世界最高の權威者といはれるドイツのハインリツヒ博士もまたこの研究に從亊してゐたが、その愛弟子だつたハナドから完成近しといふしらせを受取つてから斷念してしまつてゐた。  博士はハナドなら必ずしとげるだらうと思つてゐたからだつた。  それほどハナドは信頼されてゐた。と同時に、詳しいことは發表されなかつたけれども、とにかくハナドがこの發明を完成したらしいといふ亊實は逸早く世界中の學者の間に知れわたつてゐたし、一般の世間でも、何か素晴らしい發明があるといふ程度には知つてゐた。  かふいふ名聲の中にあつてハナドアキラはなほ憂鬱なのである。  今度はその憂鬱の原因を語らねばならない。  しかしそれは間もなく彼の行動が説明するであらう。     ×  アキラはさつきから相かはらずソフアに仰向けになつたまゝヂツと天井を見つめてゐる。  このあはたゞしい、一分一秒の時をすら惜しむ世の中にあつて、彼のかうした態度は全く時代離れがしてゐた。  一體アキラは何をしてゐるのだらう?  なるほど天井の一角に逆冩鏡があつて、そこに外部の風景が映つてゐる。  然し彼はその鏡を流れる街路の風光に囚はれてゐるのでもなければ、新しいキカイの研案を續けてゐるやうでもなささうだ。  水晶のやうに澄み切つた瞳、沈默そのものゝやうな瞳、征服慾の勝つた瞳!それは英雄の瞳だ。  大野望家の瞳だ。狂人のやうな大天才の瞳だ。  不思議なことに瞳はだん/\と曇つてゆく。濡れてゆく。血筋の數が増してきた。と、眼頭に溜つたものがくづれるやうにボロ!と一筋、頬を流れた。  涙!  堪へられないやうな涙である。燃えてゐるやうな涙である。怒つてゐるやうな涙でもある。戀をする者の涙。青春に限りなく押し寄せる人間的な寂莫の涙。詩を誦む者の涙。生に疲れた者の涙であらうか。  否!彼の涙はそんな浮弱な者の涙ではない。甘い詩のやうな涙ではない。  もつと人間的な、本能的な、血を洗つて流れる愛怨の涙だ!  〃この瞳に涙のこぼれる時は、彼の胸に自殺した父の死像が宿る時である----。〃  果して、彼の瞳は亡き父の冩眞に向つて注がれてゐたのだ。  大きく部屋の一角に掲げられてゐる父の冩眞!  寂しい顏、默々と生に息づく顏、哀しみを胸一杯に湛へて微笑まんとする顏!それは志しに破れた人間が地に祈る顏ではないか。しかし空虚な顏ではない。生きる屍の顏ではない。どこまで も忍ぶ者の人間的な顏だ!  漸く、アキラの瞳は柔かくとぢられた。刹那に、もう一滴、涙が頬を傳つた。  〃哀しい幻想が始まつたのであらう…………。〃  まだアキラは身動きもしない。  兩手は胸の上でかたく組まれたまゝである。微に唇だけは慄へてゐる。  靜寂な一刻!  彼はつと立上つて部屋の中をグル/\歩きまはつた。歩きながらもなほ父の亊を考へてゐるのであらう、とき%\ツト立停つてはためいきを吐いた。父の冩眞を見上げた。五分!十分!  やがてアキラは部屋の一隅にある大きな金庫の前に立つた。  Subtitle  甦る呪れの日  Description  アキラは大きな金庫の扉に設置された七つのボタンを、五つだけ押した。----と、金庫の前に立つてゐるアキラの身體がすーと地下に消えたのである。同時に金庫の底が二つに割れて、内部から一つの箱が落ちてきたのだ。  間もなく----。  アキラの姿が金庫の前に再び現はれた。その右手には、小さな桐の小箱が抱へ込まれてゐる。彼はその小箱をデスクの上に靜かに置いたのだ。  〃記憶せよ、九月五日--〃  小箱には、こんな文字が記されてゐる。アキラの瞳光は、必然その箱の文字に吸はれて行つた。  次第に彼の身體は、戰慄から慟哭に滑つていつたのだ。  アキラは今、哀しい----といふよりは、呪はしい過去の、その日の幻想に咽んでゐるのである。  〃小箱の中には血にまみれた父の遺書が祕められてゐた--〃  自殺した父の遺書だ!。妻を呪つた男の血滴の遺書だ!。死をもつて報復を宣した血書である。  燃え上る血潮を抑へて、アキラは小箱の中からその遺書を取り出してみた。  小箱に祕めて十年----。  まだ一度も取り出して見なかつた遺書である。  復讎の日に--。良心に誓つて十年前----二十歳のアキラが小箱に祕めた遺書であつたのだ。  それが十年後、三十歳のアキラが、今その小箱を取り出して見る以上、呪はれの日の決算が近づいたに違ひない。  念ふともなくアキラの頭に、今日の日と共に映つてくるのは、十年前の九月五日である、その日の父であり、その日の母である。 〃甦る呪はれの日……。〃  ×、花戸健二の亊務室。  東洋航空機製作所の所長室。その大きいデスクの前に、所長の健二は妻のセキ子と劇しい口論を始めてゐる。  健二の口調は餘程激してゐた。  それに反して、セキ子の顏にはやゝともすると冷笑が浮かぶのだ。  その冷笑を浴びる毎に、健二の瞳光からは火華のやうな怒氣が走つた。  東洋航空機製作所の破産を前にした醜い夫婦の爭論である。否、それよりも、極度に女性の權利が進出した----女性君臨の社會の縮圖だ!。  女性の一人として妻のセキ子はその權利と自由を男性の一人である夫の健二に主張した。 「妻として貴郎に仕へることゝ亊業とは又別で御座います!男のために女がどこまでも犠牲にならねばならないなんて----それはもう舊い昔話しでは御座いませんか?妾の亊業を犧牲にしてまでもこの製作所を救濟する亊は、絶對に考へられない亊で御座います」  宣言的な言葉を、セキ子はいひ切つて終つたのだ。 「それでは!?」  こゝで、健二は絶望的な男性の最後の言葉を選んだのである。 「お前はこのわしを見殺しにしてでも、なほ亊業に生きようとするのか?わしをこの社會から葬らうといふのか」  しかし、この言葉も、女性としてのセキ子に叫びかけるには、何の力ももたなかつた。 「貴郎は激してゐらつしやいます、だからそんな冷たい----絶望的なことをおつしやるので御座います、たとへ今、貴郎がこの製作所と共に破産なさいますとも、貴郎の生きる道は御座います! それは妾の航空會社へお越しになることです!」 「な、なにをいふのだ!?」  突然、健二は立ち上つた。 「夫が妻の下僕になる? そ、そんなことが、夫として出來ることか出來ないことか----考へて見ろ。花戸はそれほどに、骨のない人間として、この社會で生きたくはないのだ!」  異常に健二の瞳光がきらめいた。 「それこそ、貴郎こそ、間違つたお考へをもつてゐらつしやいます、女といふものを何故もつと人間的にお認め下さらないのでせうか?女もまた、男と同じやうに獨立した生活者では御座いませんか、社會はそれを既に認めてゐるではありませんか? 貴郎はまだ舊いかたに妾をはめようとしてゐらつしやいます!此の社會を見まいとしてゐらつしやいます!」  セキ子の瞳光も、健二以上にきらめき燃えたのだ。しかし、そのきらめきは、決して健二のやうに激したものではない。  冷笑だ!嘲笑だ!そこには妻でもない、女でもない----冷血な亊業家の眼が光つたのだ。その眼は血なまぐさい進軍喇叭に屍を踏み越えて進む戰士の眼である。味方を忘れ、たゞ戰ひのみを知る野獸的な人間の眼だ! 〃科學文明の怖ろしい進軍!キカイは次第に人間の獸であることを證するのだ!!〃  その眼に抗する力もなく、憤怒に燃える心を健二は再びデスクの前に埋めた。  セキ子の眼は更に光つた。 「よく考へて下さいまし、あのころのことをもうお忘れなさいましたか? 妾は何一つ貴郎のお力を借りて今日の亊業を完成したのでは御座いません、血のにじむやうな努力と、鐵石のやうな強い意思とで、妾は妾を築き上げたので御座います。あのころには、隨分貴郎からも嘲笑されたもので御座います、女の身で、そんなことが遂げられるものかと、貴郎が幾度おつしやいましたやら----それを思ひ出すと……」 「お待ち!」  堪へられないやうに手を振つて健二はセキ子の言葉を遮つた。 「あのころのわしは惡かつたかも知れない、何一つ力を貸さなかつたわしの心が、今お前に曲解されても仕方のない亊だ。 しかしそのためにお前がわしの破産を救濟しない、わしを見殺しにするといふ理由を、そこから發見しようといふのではあるまい!?」 「なんて----ことを、おつしやいますの?貴郎は……。」  いひながらセキ子は腕時計の針をチラ!と眺めて、押へるやうに健二をみつめた。 「あなたは妾の申上げてゐることがハツキリお判りにならないと見えますね。」 「イヤ、よく判つてゐる、しかし……」  健二はます/\せきこんでいふ。 「理窟なんか、どうだつていゝじや御座いませんか。そんな理窟を考へてゐらつしやるよりも、破産に迫つている製作所のことをお考へなさいまし、妾はこれから始まる會社の委員會に顏を出さねばなりません、たゞ貴郎とお約束の出來ることは、貴郎の妻としてこれから先の貴郎の生活を保證するといふ一つで御座います、」  かう言つて、セキ子は速座にデスクの前から立ち上つた。 「セキ子!」  健二も立ち上つた。 「妻として、現在のわしに對する約束は、たゞそれだけでよいといふのか?」 「左樣で御座います、妻としてそれ以上の、何が約束出來ませう。貴郎は貴郎!亊業は亊業!」 「そ、その言葉が、わしの運命の破滅であるとしても?!」 「妾にはこれ以上、何を申し上げる言葉も御座いません、たゞ妾は權利と義務をよく存じてをります!」 「あの二人の子供に對しても、やはりお前は權利と義務以外のものを考へないといふのか?わしの運命の破滅した後にでも?」 「貴郎に對し、子供に對し、まだ何かほかにあるものが御座いませうか?!」 「バ、馬鹿!お前は獸だ!!」  劇しく健二が激すれば激するほどセキ子は冷靜に身を構へた。 「貴郎は弱い人です!救ひを求める人、妻の前に屈伏して社會をごま化そうとする卑怯な人です…………。」  刹那にごうぜんと短銃の音が室内をゆるがせた。同時にカレンダーが健二の顏面に飛んで落ちた。  無論、その時には室内にセキ子の姿は認められない。  たゞ、室内には魂のない人形のやうな健二の姿が、ぼんやりと突立つてゐるだけだ。  不思議な程に、その短銃の音が消されてゐたのか、それとも亊務室までその銃聲が屆かなかつたのか、所長室の異變を知つて馳け寄る人の足音も聞えなかつた。  〃投げられた九月五日のカレンダーよ〃  彼はそのカレンダーを見た。  カレンダーのなかに彼を嘲笑するセキ子の幻影がある。  彼はカレンダーを踏みにじらうとした。  今度はカレンダーのなかに二人の子供の顏がうつる。  悲しさうに父を見上げる顏、淋しく微笑む顏----だ。 「明、田鶴!」  健二はカレンダーを拾つて、胸に抱いた。 「可愛さうな兄妹よ。」  健二はハラ/\と涙をこぼした。 「お前達のみじめな父を笑つてくれるな、勝ちほこつた母親よりも、敗れ傷いた父親の方が、どれほどお前達を愛してゐるか、いまにそれが判るだらう」  彼はひとりごとをいひながら、カレンダーを抱いてデスクの上にうつ伏した。  それから一時間も經つたであらうか----。  怖れてゐたものゝ眼が所長室に現はれた。その眼は二倍の怖ろしい眼だ!。 「只今、この支拂手形に對する保證を奧さまの會社が拒絶されました。あなたはこれに對して即刻、責任を果して項きたい!」  その眼はぢり!と健二の前に詰め寄つたのだ。  彼は慄へる唇で僅に答へた。 「死に面してゐるこのわしを、もう一度生かしてくれる君に男の涙はないか?」  に!とその眼は嗤つた。 「そんなことは聞き厭いてゐる!それはあなたが奧さまに言ふべき言葉だ!奧さまの會社さへあなたの望み通り保證の約束を果してくれゝば、問題は解決する!そのためにあなたが盡力するといふならもう一日あなたが望まれる男の涙をお賣りしよう……。」 「それが出來なければ?」 「工塲を閉鎖するまでだ!」 「そうしてわしの亊業を叩き潰して終ふといふのだな?!」 「勿論!」 「やり給へ。わしはもう凡ての希みをこの世に捨てよう!生きるには、あまりに呪はしい獸の世界だ!!」 「さうか----。」  怖ろしい眼は去つた。  運命の決算だ!。彼はデスクに寄つて、九月五日のカレンダーの上に、「死」のペンを走らせたのだ。  書いては泣き、涙を拭うてはそのペンは走りつゞけた。  遂にはすゝり泣きの聲さへ聞えた。それは亊業家としては、餘りにみじめな有樣だつた。そのときの健二はすでに亊業家としての人格を失ひ、一個の人間の姿に戻つてゐた。  〃なんのためにこんなことを書くのか、書き遺しておきたいのか、父なるわしはお前達に對して、それをはつきりといふことが出來ない。しかし、わしは自殺する。 自殺する意味がなんであるかも父なるわしは語るまい。だが、やがて學校を卒るお前達は、お前達の前に展げられる裸の人生から、今日の父なるわしの自殺を見るであらう。  お前達はそれを憐れんでくれるかも知れない、又、嗤ふかも知れない。  その時のお前達の心はお前達のものである以上、わしは何も考へたくはない。  たゞ、お前達にとつては母であり、わしにとつては妻であるセキ子が母なる義務に從つて、これからのお前達の養育に、義務だけのことを盡してくれるに違ひない。  お前達はその義務を喜んでくれるであらうか。  母と子の結びが、義務以外の何でもないものだとすると、父なるわしがお前達の頃のことを思ひ出す。その頃のわしの母のことを思ひ出す。  わしの母はお前達の母のやうに大きい會社の社長でもなければ、巨萬の財の支配者でもなかつた。  從順な父の妻であり、父との別居を要求し、父との面接日を定めて、女性の權利と自我を呼ぶやうな妻でなかつたことを、まだはつきりと記憶してゐる。  それがわしの母であつたのだ。  子のためには涙ぐんで微笑むことの出來るわしの母は、わしのためにはどれ程多くの勞苦を、子守唄の奧で積み重ねてくれたことであらうか。  子供の頃は、わしは病弱者であつたと聞かされてゐる----。〃  遺書はなほつゞいてゐる。 〃わしはお前達のやうに、立派な病院の一室で、金のみに動く人達から、金次第の看護をうけたことは一度もなかつた。しかし、わしは夜もすがら、母の手に抱かれて、母の涙と、母の甘い子守唄とに幾夜かを過ごしたあの記憶を忘れないのだ。  母!それは金錢で計る義務の言葉ではない。義務は愛ではない。愛は物質ではないのだ!けれども不幸にしてお前達は、愛でない義務の中で育てられ、お前達の人間愛は物質で計られてゐる。  お前達よ、わしはお前達が母の子でなくわしの子であると今も信じてゐる。この信じてゐるわしの心が自殺した後もお前達の心の中で永遠に生きることを約束する。  お前達はお前達の母に對して何を感じるか。  お前達の母はお前達の前で父なるわしの自殺を嗤ふに達ひない。  お前達はその母と共にこの父なるわしを嗤ふことが出來るであらうか----。  わしは今も勝利を祈る。お前達の心に生きるわしの魂の更生が妻に對して勝利であるやうに祈られる。        自殺する父より   子等へ         〃  ごうぜんと再び銃聲が所長室を漂はせた。  九月五日のカレンダー!その上にぽと!ぽと!と血潮が落ちる。  物質文明が人間に對して要求する生命の血潮だ!  その血潮の上に人生の訂正は遂行されるであらうか。  アキラの研究室に戻る----。 「お父さん!」  アキラはその遺書をかき抱いて高く叫んだ。 「あなたは生きてゐらつしやいます!このアキラの血潮の中に、あなたはたしかに生きてゐらつしやいました!今までに私が完成した數々のキカイは、あなたの妻に、私の母に勝つことが出來なかつたのを、あなたは歎いてゐて下さいますな!今こそ私が、否え!お父さんがあの女性を征服することができるのです。母はたしかに物質文明が生んだ人造人間です。キカイです。キカイを征服するものは、やはりキカイであらねばなりません、私は今、そのキカイを完成したのでございます。九月五日といふこのカレンダーにわたし達が勝つたといふ文字を刻み込むのは、もう間もないことでございます!」  かう----掲げられた冩眞に向つてアキラは叫んだ。  そして少時デスクに顏を埋めてむせんでゐたが、間もなく十分に泣いてしまつたと見え、キツとなつて顏を上げた。  アキラの瞳に光る涙、----彼の憂鬱は、このとき始めて消えたかと見えた。  アキラは肴望に燃えるやうに感じた。  彼は再びコツコツと部屋の中を歩き廻つた。  しかしその歩みは前とちがつた歩みである。  いつも新しい研究の曙光を見出しかけたときのやうな力強さを彼は心のうちに見出した。 「さうだ、お父さんの復讎を遂げる日が近づいたのだ!」  そのとき突然訪問者を告げるベルの音がけたゝましく嗚りひびいた。  アキラは始めて現實の自分に歸つて、私設テレビジョンのスクリーンを見上げた。  Subtitle  二つの申出  Description  私設テレビジヨンのスクリーンには玄關に立つてゐる來訪者の姿が現はれてゐる。アキラは應諾のべルを押した。  しばらく----部屋の扉をあけてその客人が現はれた。  大きな男である。老人のやうでもあり、若ものゝやうでもある紳士はさつきスクリーンに映つた男だ。  二人は近づいて握手した。 「しばらく、お邪魔ぢやないかね、ハナド」 「いゝえ。もうスツカリ片附いてるんです」 「いや、それはよく承知してゐる。ところで早速だが實驗の日はきまつたかね」 「それも大體きまりました。近日中に實物がスツカリ揃つて出來上ることになつてゐるんです、實驗は來月上旬になるでせう----」 「無論確信はあるわけだね」 「大丈夫です」  アキラはいさゝかの躊躇もなく答へた。  巨大な男は滿足氣にうなづいた。 「ついては君の發明の成功祝ひをやりたいと思ふんだがね。イヤ、君の氣質はよく知つてゐる。それを喜ぶやうな人でないことはよく知つてゐるが、今度の發明は無論君の成功であると同時にわが産業界、延いては日本國の成功といはなければならない。だから日本のためにこの發明の完成を祝福するといふ意味を兼ねて、この偉大なる發明者であるハナドの祝賀會を開きたいといふことは、決して僕個人の希望ではなく、社會各階級を通じて有識者一般の熱望するところなんだ。で----」 「ちよつと待つて下さい。お話はよく解りましたが、矢張り私は御辭退申しませう。イヤ決して謙遜してるんぢやないんです。僕だつて今度の發明に就いては十分の自信と誇りを感じてゐますが、とにかくさういふことは僕は餘り好まないんですから」 「イヤそれはよく承知してゐる。しかし僕達の熱望も容れて貰ひたいと思ふが----」 「御好意は受けますが、そのために主賓である僕が好まないことまで忍ばねばならぬとなると、却つて有難迷惑ですね」 「さういはれると----」  當惑した巨大な紳士はポケツトから奇妙な型をした喫煙管をとり出して火をつけた。  仄かに黄色い煙が一筋ゆつたりと立ち昇る----これは煙草ではない。人間の老衰を防ぐ興奮煙だ。  科學の青春----人間の力は永遠の青春を發見した。いまこの興奮煙を喫うてゐる紳士が老人のやうでありながらその顏面に青春が漲つてゐるのは全くこのおかげだ。 「しかし----」  となほあきらめかねて紳士はいつた。 「君のお母さんも非常に熱心に今度の祝賀會のあつせんをしてゐられるんだが----」 「おつかさんが?----」  アキラの聲はむしろ叫んでゐた。「ミムラ頭取、お母さんも出席するといふんですか」 「さうだよ」  ミムラ頭取はアキラの態度が急に變つたので、ちよつと面喰らつて、興奮煙を口から離した。 「このミムラと、ハナドのお母さんの二人が主催者代表になつてゐるんだ」 「お母さんが主催者に----」  アキラはヂツとみつめた。父の冩眞をみつめた。 「ミムラ頭取、承知しました。僕は喜んでその祝賀會へ出席させていたゞきませう」  しばらくしてハツキリと答へた。 「イヤ早速承知していたゞいて有がたう。皆も喜んでくれるだらう。ところで君の方の日はいつが良いだらう?」 「九月五日にしていたゞきませう」 「九月五日、來月だね」 「ヱー、そのころはちやうど實驗が終るころかと思ひますから、よし終らなくつても、ぜひその日にしていたゞきたいと思ひます」  九月五日!父の自殺した日だ。その日は自分の發明完成祝賀會がある!  それは同時に父へ對する自分の報告日だ----そうしてもう一つは…… 「いやその日なら萬亊好都合だらう」  ミムラ頭取はアキラの心中に、どんな感慨が走つてゐるか、そんなことは全く知らずに案外乘氣になつてゐるらしいこの若者の態度にスツカリ喜んでゐた。 「ところで----」  ミムラ頭取は汗を拭いた、ヂツとアキラをみつめた。 「いまゝでの話はこのミムラが日本國民の一人としての話だ。これからミムラ個人として少し話があるんだ----」  ミムラはニツコリ笑つた。この老人の微笑には堪らないほど人懷しさがある。彼の微笑に會ふと、誰でも肉親の父親に接するやうな感じ、すがりたいやうな感じがする。  ミムラはアジア銀行頭取----この都市の金融機關の中樞神經の幹線を握つてゐる----である。  彼はいつでもこの微笑で人々を懷づけ、けふの地位を築いて來た、彼は最も重大なチヤンスに、この微笑を投げかけることを忘れなかつた。彼は自分の才能に自信を持つていた。  科學萬能の世界にあつて、ミムラ頭取の微笑は不思議な力であつた。 「どういふお話です」  しかしアキラは別に彼の微笑の魅力を感じたらしい態度は見せなかつた。始めのやうにブツ切ら棒だつた。 「つまり今度の機械の權利だね。あれを僕に讓つて貰ひたいと思ふのだ。無論、君は僕の地位を認めてくれるだらうと思ふし、僕もまた、十分に君の努力を認めてゐると確信してゐるんだが----」 「………」  アキラは返亊をせずに傍らをむいた、その眼は父の冩眞に注がれてゐた。  ミムラは狼狽した。この一介の青年が、いま日本の財界で誰知らぬものもない有力者であるミムラ・タカシの、存在を無視して、返亊もしないで、あちらを向いた、その無禮をとがめる前にまづ狼狽した。 「誰か他に先約者でもあるかね----」  ミムラはアキラの發明に十分の利益を計上してゐた。この機械の權利を得ることは、現在の彼の地位を數倍向上せしめる。或は産業界の霸者となるであらう、それをよく/\知つてゐる彼であつた。 「誰とも約束してゐません」  アキラの答へにミムラはまづ第一の不安を除いた。 「それでは君自身亊業界へ乘り出す氣かね」 「ミムラ頭取、僕は亊業家ぢやありません」 「ぢやあ、どうだらうね、これまでの交誼を思つて、一つ僕に讓つてくれないかね。權利金は----」 「待つて下さい」  アキラは押へた。 「九月五日、僕の祝賀會の席上、僕はこの權利を讓る人を發表しませう、それまでは待つて下さい」 「よろしい」  ミムラも多くいはなかつた、彼は巨大な手を出してアキラと握手した。 「ハナド。ぢやあ失敬する、別れぎわに一言、あの權利は三千萬圓以下では誰にも讓つてはいけないよ。」  ミムラ頭取を歸したアキラが、もとの席に着くか、つかぬかに、再びべルの音がけたゝましく鳴りひゞいた。  今度の來訪者はアキラには珍らしい若い女性だ。  スクリーンにそれが冩ると、アキラは果して小首をかたげた、そして別の呼鈴を鳴らして、たゞ一人の老僕を呼んだ。  玄關へ出た老僕は、しばらくして手に一通の手紙と名刺を持つて入つて來た。  〃ミナミ・ヒカル〃  ヒカルが訪ねて來たのだ。アキラは名剌の裏を見た。  〃貴下の良き助手となるであらうヒカルを御紹介します      タキ・ハルキ〃  タキ博士の紹介状だ。  手紙はアキラの恩師ハインリツヒ教授からのものだつた。  アキラは改めて應諾のボタンを押して、部屋の入口まで出迎へた。  スクリーンから拔けて本當の姿を現はしたヒカルは、何とはなしに陰氣なアキラの部屋を一時に明るくした。それほど彼女は華やかな笑顏だつた。 「始めまして、あなたがハナドですか、妾ヒカルです。」 「始めまして、僕ハナドです。ようこそ」 「早速ですが、先生の御紹介状を見て下すつて?」 「拜見しました。二つとも」 「で----いかゞでせう、妾非常な决心と大變な希望をかけて伺つたんですが、あちらからこゝへ來るまでの間、あなたのアツシスタントになれるといふ希望と喜びに夢中だつたんですわ」 「ありがたう、しかし私が先生に誰か良い助手をお世話下さいと頼んだのは、もう半年も前なんです」 「ヱツ!ぢやあもう誰か別な人が來てゐらつしやるんですの。だつて先生は何にも仰しやらないで急に思出したやうなお話だつたんですもの、でも妾大喜びで承諾したんですわ。困りましたわねヱ。」  ヒカルは失望の色を深く表はした、それはむしろ誇張されたほどの落膽ぶりだつた。 「イヤ待つて下さい」  アキラは制した。 「決して誰も他の人が來たわけぢやないんです」 「アラ! ぢやまだ誰も伺つてないんですの、では妾を使つて下さいますわねヱ」 「ところが----もう助手は要らないんです」 「要らない?何故ですの?」 「僕の仕亊はスツカリ完成したんです」 「完成した!」  ヒカルはガツカリしたらしかつた。今度は本當に落膽したらしかつた。イスに腰を埋めて、しばらくは顏も上げず、默つてゐた。しかしアキラは一向氣の毒さうな氣色を見せなかつた。 「折角ですが、さういふわけですから」歸つてくれ、といはんばかりの挨拶だつた。  ヒカルは顏を上げた。 「ねヱ、ハナド、妾べルリンから大急ぎで驅けつけて來たのよ」  とヂツとアキラの瞳を見つめた、アキラはちよつと不快の色を示した。 「それであなたは僕に、女性に對する禮儀を要求するんですか。つまり最大の遺憾を表明するために。どうしたら良いのですか?」 「ホヽヽヽ」  ヒカルはくづれるやうに笑つた。 「妾、やつぱりそんな女に見えて?このごろの女性と同じやうに----」  ヒカルのこの言葉は、アキラには意外だつた。極端に女性の權力が巾を利かして、むしろ男女同權以上に濶歩しようとしてゐる女性の姿、アキラは自分の知つてゐる一番手近な女性----母親----にそれをハツキリと認めてゐた。そして少い女性の知り合ひを通じて、凡そ母親と同じ印象と知識を持つてゐるアキラには、今日始めて知つたヒカルもまた、同じやうな女性にしか受取れなかつたことは當然だつた。それはアキラが女性を嫌惡する一つの原因だつた。 「妾は、みんなと少しばかりちがつてゐるのよ、妾ずゐぶん舊式な女なんですわ、だからあなたから最大の遺憾を表明していたゞかうなんて、そんなこと少しも考へませんわ」  再びヒカルは云つた。アキラは眼を見はつてまじ/\とヒカルを見た。  新らしい粧ひ、眼元、口元、ハツキリしたものゝいひやう、開けつ放しの態度----それらは悉く近代女性のすべてが持つてゐるものと少しもちがはなかつた。 「だが、僕にはあなたもやはり同じやうな女性に見えます。僕はすべての女性を尊敬してゐません。あなたに對しても同じことです。お氣にさわつたら御免下さい、しかし僕のあなたに申し上げることはその外にありません。それに先もいつた通り、もう研究は完成したんですから----」 「ぢやあ、新しい御研究のお手傳ひをさせて下さい」  ヒカルは、アキラの重苦しい女性を悔辱した言葉にはまるで無頓着にいつた。 「新しい研究?」 「ヱー、さうですわ、科學者は一つの仕亊の完成だけで滿足してゐるものではありません。だからハナドも同じやうに、キツと又別の新しい研究を始めるでせう?」  アキラは默つてしまつた。彼はいま疲れてゐる。高壓無電輪送機の完成にホツとして疲れてゐる、しかし、彼は靜かに自分の胸をのぞいて見た。----ある、確かにある、彼には更に新しい何かの研究を始めようとする慾望が、胸の底にうつぼつとしてわだかまつてゐることを感じないではゐられなかつた。  ヒカルはそれをいひ當てゝゐる 「或はさうかも知れません、だが----」 「でせう、さうでせう、だから、妾にその新しい研究のお手傳ひをさせて下さい。ハナド、妾はあなたと相弟子です。そしてあなたを尊敬し愛慕して、ハナドの仕亊のアツシスタントになれることを、妾一生の誇りとしてゐるのです。それを夢見ながらやつて來たのです。高鳴る胸を抱いて、それに、それに----」  絶えて久しく見られなかつた女性の涙といふものを、アキラはヒカルの眼頭に見た。  かくさうともせず、ヒ力ルは五十年も前の女がしたやうに、ハンカチを眼にあてゝしやくり泣きを始めた。  アキラはヂツとその樣子を眺めた。アキラの眼の下に女の黒髮があつた。黒髮の下に、太い、しかしなめらかな前筋がピク/\と動いてゐた。圓味を帶びた肩、二の腕、黒髮は飽くまでも黒く、肌はあくまでも白かつた。  アキラは眼を閉ぢた。しばらく----ヒカルはまだ顏を上げない。 「ヒカル、僕が負けです。先生と親友の紹介状を反古にするのもどうかと思ひます。とにかく祕書としてしばらくでも僕のところにゐて下さい」 「ハナド、ハナド」  ヒカルは狂人のやうに叫んでアキラの首にその手をまきつけた。アキラがあわてゝ顏を引かなかつたら、狂喜したヒカルの唇はアキラの顏ぢうに接吻の雨を降らしたであらう。彼女はグイ/\とアキラの胸に自分の胸を押しつけた。涙にぬれたまゝの大つぶな瞳を、アキラの眼に近づけながら----。  Subtitle  母と妹  Description  ×太平洋航空會社社長室----。  壯麗な一空----。驚くほど精巧な掃空機が備へられ、太陽光線の洗光機が一點の影をさへ奪つてゐる。鋭い眼のやうな金庫があり、トカゲの皮で造られた自動椅子の前には、巨大な動物の骨で造られたデスクが置かれてある。  自動氣流報示機の針は、刻々に太平洋上の氣流を示し、受聲器のラツパは頻りに亊務の報告を始め、デスクの上の送聲器からは、命令が飛び、警先が走る----。  グラスのドアーの外では幾十人かの面會人が、その順番の來るのを待ち、太平洋上を飛行する旅客機から發信する電信記號は受信機の告示幕で明減する。  科學の部屋、黄金萬能の部屋。興奮煙のみなぎる部屋----。こゝは太平洋航空會社の社長室である。  多感情熱の科學者、ハナド・アキラの母であるセキが、女社長として、限りない誇りと、限りない物質への欲望をキカイ化するこの一室には、氷のやうな策智と、鐵のやうな神經の交錯のほか、凡てはキカイの活躍だ!  〃哀愁のない部屋! 人間的な哄笑のない部屋! 人生の感傷を失くした部屋----。〃  こゝに積まれてゐる人生は、女性が男性への宣戰であり、征服である。永い幾千年、男性のために征服された女性が、こゝでは素晴らしい勝利の進軍を續けてゐる。  デスクの前に王者の如く坐つてゐるセキの姿は、さながら女人權勢の化身を思はせる。  〃彼女の眼に使役される男性、彼女の眼に面接を與へられる男性の凡ては、奴隸だ!〃  彼女の眼に支配さ山る側近者のめまぐるしい活動。それが、瞳の動きに停止され、活動する。既に彼等の在在も、彼女の前にはキカイでしかないのだ!  まことに女人天下の光景である。  次々に面會人は現はれる。彼等も亦、彼女の前に奴隸たらんことを甘受せんとする人々だ!  〃太平洋航空會社。それは尖鋭な科學の世界、爛熟した物質萬能社會に君臨する女人權勢の王城である!〃  突然、彼女の前に、奴隸たることを甘受しない一人の男が現はれた。  それはこの商工都市の地下街を支配する----地下街經營會社の支配人トヤマ・ハジメである。  スモール・トヤマと呼ばれる此男の體躯は甚だふるはない。しかし、彼の眼は、彼の唇は、尖鋭なキカイを思はせる!。キカイのやうな冷たさと、鐵のやうな神經は、決して彼女に劣るものではない。  トヤマを迎へたセキは、初めてにツとその顏に微笑を見せた。仄かにその微笑から、女であることの本能が走つたのだ。 「暫らくでした」  トヤマはゆつたりと卜カゲの皮で造られたく形の椅子の深いクツションに腰部を埋めて興春煙を吐き始めた。 「どちらへか----」  鼻眼鏡の奧で、セキも大亊業家らしい「愛想」を見せたのである。  興春煙にほてつた血の色を見せて、さて、トヤマは話の本筋を選んだ。 「今度の祝宴----それは無論御存知でありませうが……あれについて」  セキはすぐに話の續きを遮つた。 「あのこと----、それはもう母として皆さま方の御厚意を、どんなに有難くおうけしてゐることで御座いませう、まことに嬉しく、アキラのためにも光榮に存じてをります……」  トヤマは話の腰を折られた形だつた。それを懸命に取り返さうとして一段と聲をあげた。 「いや、そのことではなく----わたしのにひたいことは……實は、貴女に少々御注意と、ま----いつたやうなことを……」 「それは?」  セキの顏に、始めてあるものが動いた。 「話といふのは、あのキカイの權利で御座いますがね」 「キカイの權利をアキラがどうかしたとでもおつしやられるので御座いませうか?」  いよ/\セキが慌てた。トヤマは漸く話をもとにもどした。ゆつたりと膝に落ちたパイプを咥へて、次の言葉を進めた。 「まつたく、それがどうにかなりそうだと聞いたものですから、貴女よりもわたしが驚いてゐる始末です。」 「眞逆。それは何かのお間違ひでは御座いませんかしら?あの子に限つて----それは信じられません、あの子は母を愛してゐます、信じてゐます。」 「ところがアジヤ銀行のミムラ頭取、彼奴が例の巨手をアキラに伸してゐるのです。まことに相手が惡い!アキラはその相手に約束を與へたらしいのです。」 「……」  セキは沈默した。しかしその沈默は負かされた沈默ごはない。嘲笑だ!策智が、鐵のやうな神經がトヤマの話を噛み切つた。 「トヤマさん、それで貴方がどうだとおつしやるのです?」 「それはお尋ねになるまでもありますまい!そのためにわたしがどれほどの損失を負はされるか----御計算を願ひませう。」 「無理で御座います!あのキカイの權利全部を貴方にお渡しする目算で、妾の航空會社が貴方から百萬圓の借金をしたのでは御座いません、あの金はあの金として返濟すれば良いのでは御座いませんか----?」 「成ほど、しかし、ハナドさん、よく考へて下さい。これまでゝも缺損續きの航空會社ではありませんか?それにあのキ力イが完成されて、これからの凡ての航空機があのキカイを使用しなければ、時代的に葬られるとすれば、こゝに又資金の問題がもち上る!その航空會社から、貴女はすぐに百萬圓の金をわたしに支拂つて下さるでせうか?、その結果を考へて下されば、これはどうでもお互ひのために、あのキカイの權利を、貴女が御自分の手に握らねばなりますまい!?」  スモール・トヤマはセキの鼻眼鏡の奧を睨んだ。 「トヤマさん!、航空會社がこれからどうなつてゆくか----その御心配は貴方の御勝手で御座いますけれ共、妾があのキカイの權利を他の人に奪はれる----そんなことは考へる程のことでも御座いません、妾のもので御座います。アキラは妾の子では御座いませんか?」  さすがに激情の溢れてくるのを、セキはどうすることも出來なかつたのだ。冷靜でスマートで大膽でなければならない大亊業家の定則から、女性といふ一點の汚點が、此の定則を亂した。 「なる程!」  トヤマはあらためてパイプを咥へた。 「母が子を支配する、一應は御尤な御言葉です。ではどうでせう、ハナドさん、一つお電話でゝもアキラにその母としての意志をお傳下さつては!」 「有難う。では折角のお言葉を無にするのも----なんですから、妾が貴方の前で、アキラの意志をお傳へすることに致しませう……」  かういつてセキはデスクの上のテレホンをとりあげた、ニヤリと笑つたのトヤマである。  ×アキラの研究室----。  アキラは外出の用意を始めてゐる。下男の老僕がそれを手傳つてゐる。  殆どその用意を濟ませたころにデスクのテレホンが、受聲のべルをけたゝましく叩いた。  老僕は驅け寄つてテレホンに向つた。老僕の耳にセキの聲が通じたのだ。  老僕はアキラに向つて丁寧にいつた。 「あの----航空會社の社長、いえ、お母さまからで御座います」 「母?----母?あ、母か----。」  その言葉を老僕が不審に思つてゐるらしい。その不審さに包まれながら、滿面に微笑を刻んでアキラはテレホンを握つた。 「ええ、僕、アキラです、え? キカイの權利のことについて? 僕に宣言せよとおつしやるのですか? だが、それは今申し上げることは出來ません、九月五日、祝宴の席上で發表する約束です。----さうです僕は、これから外出したいと思つてゐます、え? いゝえ? 誰にも會ひに行くのではありません、僕はこれから妹に會ひに行くのです、え? ミムラ頭取に----?そんな話はミムラ頭取から承つたことがありましたが、何の約束も交はしたものではありません、そのお話は、お母さまに會つた上でお母さまが、僕の要求を容れて下さるなら、僕はお母さまの要求に應じませう! いゝえ、その要求も今は申し上げられません、すべてはお會ひした上のことで御座います、それまでは、無論キカイの話は誰にもしない決心です、では五日の晩お會ひした時に……え? まだ何か----?はあ、そのことですか、よく承知してをります、が、僕は貴女の子であると同時に自殺した父の子であるといふこともよく承知してをります。もう理論は止して下さい! 理論はお會ひした上のことではありませんか、それよりも僕は早く妹に會ひたいのです、話をきります。さよなら……。」  テレホンから離れて、アキうはぼんやりと窓を見た。  父なる人。母なる人。幻想が走る。窓の外にきらめく無數の星を綴つてアキラの幻想が走る。  その折角の窓を、グリン色のカーテンが老僕の指先で遮つた。 「今夜はおそくなるかも知れない」  アキラはかういひながらデスクの前を離れた。彼の胸に抱へられたのは、九月五日と記した小箱である----。  ×柴の丘----  MURASAKI NO OKA  標示燈が光つてゐる。一台の飛行機がその標示燈に向つてゐる。  飛行機が赤い光りの尾を引いてウルトラマリンに澄んだ夜の蒼空を走つてゐるのが光りの帶のやうに美しい。  紫の丘は商工都市から東南へ五里、カツラギ山脈のなだらかな裾足に建設された學園である。  夜目にもくつきりと白く見える大きい建物は、學生の寄宿舍だ。  飛行機が紫の丘に着留した。光りの帶がふーと空間から絶ち斷れて、きらめいてゐるのは星である。  ハナド・タズの部屋---- 。  寄宿舍の一室である。中央に圓い卓子が一つ。窓寄りにデスクが一つ。デスクの上に一輪の白い花が活けられてゐる。  デスクの左測には大きい書棚が設けられ、その中にはぎつしりといろんな書物が背を並べてゐる。  デスクとは反對に並べられてゐるグランド・ピアノの上に、一匹のペルシヤ猫が背を丸くふくらませて眠つてゐるのが、いかにも女學生らしい生活の影だ。  ドアーが開いた、白百合のやうに氣高く美しく飾られたタズが現はれた。彼女は書棚の中から一册の本をぬき取つた。  AKUTAGAWA   RYUNOSKE  KA-N-SO SYU  芥川龍之介といへば、五十年も前の小説家である。その男の、これは感想集であるらしい。この小説家は自殺した。  ぼんやりとしたある不安に怖えて此の男は自殺したのだ。それは此の感想集の序文の中にも認められてゐることである。  彼女はホーム・ライトのスヰツチをひねつて、室内の人造光線を殺滅した。  と----窓を通してデスクの上に流れる月と星の光り。それが吸光機のレンズに反映されて、彼女とデスクと、デスクの上の感想集に白く落ちる。  詩的だ! これは一九八〇年の詩的なことに違ひない。うら若い少女の人生に對する----それらしい哀愁であり、寂莫であり、感傷であるに違ひない。  彼女は熱心に感想集を讀み始めた。五十年前の人間が、人生に對する皮肉、哄笑、悲歎、嘲蔑が、そこには面白く書かれてゐる。さうした一節の中から五十年前の社會の爭鬪、殊に資本對勞働の劇しい爭鬪が記録されてゐるのを讀むと、まつたく彼女は驚かされた。  〃極度に人間の勞働を要求した時代!〃  今日を考へると、そんな時代のあつたことが疑はれるのだ。それほどに人間が、人間の勞働を酷使しなければ、産業の命脈が保てなかつた五十年前の社會は、人間地獄のやうに彼女には思へた。  〃現代はキカイを要求する!キカイの勞働を要求する!〃  人間の勞働を拒否する時代であると同時に、人間の智的活動が、極度に尖鋭化された時代であると思つてゐる彼女の眼に、智的活動の無能な人達----勞働失落者とおびたゞしい乞食の群が、社會の何を暗示してゐるか。無論、それを見ることが出來ないのだ。  たゞ彼女はキカイの社會と黄金萬能の社會を知つてゐる。さうして、母を通じて----女性が人生に君臨する暴君的な態度を、不思議がらない彼女である。  星と月の光りで面白く感想集を讀んでゐると、不意にドアーがノツクされた。 「お這入り----」  文字から眼を離さずに、タズはノツクする人に答へた。  ドアがギーと外に開いた。廊下からの明るい光りがパ! と流れた。その光りを背に流して、づかづかと這入つたのほアキラだ。 「タズ、どうしてスヰツチをひねつてゐる?」 「あら!兄さん----」  アキラの姿を見た瞬間に、彼女はデスクから飛び離れて、スヰツチに手を觸れた。  同時に、明るいホーム・ライトが室内を眞晝に染めたのである。アキラは胸に抱へてゐた小箱を、圓い卓子に置いた。 彼女は異樣な眼で小箱を凝視めた。 「兄さん、何の箱?」 「これか----」  しかし、その言葉をぶしつけに滑らしたまゝ三脚の椅子の一つを選んでゆつたりと腰を落したのだ。彼女はまだ立つたまゝでぢつと小箱を凝視めてゐる。 「タズ。」  いひ知れぬ感情の波が、酷い力で湧き返つてきたのを僅かにその言葉でアキラは抑へたのだ。 「この小箱、これが何だと思つてゐる……?」 「…………?」  彼女はたゞでないアキラの言葉に、鋭いとは別なある怖ぢ氣を感じて默つてしまつた。 「タズ。」  その眼は異常に光つてきた。 「お前、いくつになつた?」 「あたし?----十九。」 「さうか。ではお前がまだあの時にはたつた九つ……ほんの子供だつたんだな----。」 「兄さん、あの時つて?」 「あの時のことだ!」 「あたし、それが………何のことだか………。」 「解るまい! 十年前、九月五日の日の、それが何であるかゞ解るまい!」 「九月五日?、?」 「さうだ! 十年前の----、タズまあこの小箱を御覽----」  彼は二本の指でその小箱を、彼女の側にぐい!と突いた。 「兄さん?」 「何か書いてあるだらう?」 「九月五日、----記憶せよ……これ、あたし達に?」 「お前と兄さんが記憶しなければ----誰れがこの日を記憶する!?この箱の中には生きてゐるものがあるんだ!」 「ま!箱の中に!?」  アキラの指先は慄へながらその小箱に觸れた。  彼女はそれを正視することに堪へられなかつたのか、身を慄はせて顏を伏せた。小箱の中に生きてゐるもの、それが二人の兄妹の記憶しなければならないものであるとすれば、十九の少女の身の慄へるのを、誰が否めよう。  軈てアキラの手に遺書が握られた。 「タズ!」  彼の唇と舌がもつれた。 「御覽!これだ。」  その聲に眼をつぶつて彼女は顏を擡げた。さうして、その眼は慄へながら卓子へ、小箱の上へと微な探りを始めたのだ。  ----と、彼女はとん狂に叫んだ。 「そ、それ?! 生きてゐるといふものは?」  意外であつたに違ひない。もつと異常はものがその小箱から取り出されるものと信じてゐた彼女の眼に映つたのはたゞの紙片だ。  なんのことだといつた調子の彼女をアキラはぐーと睨みつけた。 「お前、これがなんだと思ふ?----」 「紙片。」 「たゞの----?」 「…………」 「タズ、これはカレンダーだ、九月五日----十年前の舊いたゞのカレンダーに違ひない。けれ共、此の備忘欄にどんなことが記されてあるか、お前、兄さんの前で讀んで御覽----」 「…………」  アキラは眼を瞠つて腕を組んだ妹の身にどんな變化が、どんな暴風的な怖動が湧き起るかを、眼を瞠つて待ち構へてゐる彼である、タズは讀んだ。----やがて、 「兄さん!」  思つたよりも酷い----針のような言葉が彼女の唇から飛び出したのだ。彼女は讀み終へた遺書を握つて、闇よりも、もつと暗い顏でアキラを凝視めてゐる。その眼には涙のかわりに血が走つてゐた。 「タズ、お前はそれを讀んで、なにがいひたい、どんなことを此の兄さんにいつてみたい?」 「兄さん!」  血の走つてゐた彼女の眼が、急に涙で一杯に盛られた。少女らしい激情が、いつもの理性を食つてしまつたに違ひない。彼女はなに一言もいひ得ぬ唖のように、唇を噛んで哭き初めた。  アキラは彼女の手に握られてゐる遺書を、默つて眼で受取ると、それを入念に小籠の中に收めてから、靜かにかういつた。 「お前と兄さんは、哀しい星の下から生れてきた、殺された父、殺した母、その消し難い怨恨に結ばれてお前と兄さんは生きてゐるのだ…………」 「あの時には、お前は母の家に育てられてゐた、母はその父の死をお前にどう語つたか----おそらくお前はあの悲劇を知らなかつたであらう、兄さんは、お前とは反對に、幼いころから父の手に育てられ、父の生活に浸んでゐる、同じ家族でありながら、お前も兄さんも父や母と同じやうに別々な生活を營み、異つた人生に生きてきた、これは善いことか、惡いことかは兄さんには解らない、しかし十年前の自殺した父の葬ひの日のどんなに寂しいことであつたかを考へると、兄さんはあの母に憎惡を感じるのだ!破産した製作所、離散した製作所の人々、殊に職工達が父の屍に石を投げて失職の報復を計つたなど----忘れようとて忘れられない。それにも増して忘れられないのは、母が葬ひの日に顏を見せなかつた亊【合字】であつた。兄さんは父の遺書を握つて、父を虐げた凡ゆる人達への復讎を、その寂しい葬ひの日の屍に誓つたのだ。さうして兄さんの復讎の半ばは十年の歳月で果してゐる。兄さんが次々に創り出してゆくキカイ、そのキカイがどれ程多くの人々から職を奪つたか!  〃街に群れてゐる多くの勞働失落者! 乞食! それは皆兄さんに復讎された人々だ! 兄さんのキカイは人間の勞働を要求しない! 彼等が工揚での暴君であつたのだ! 屍に石を投げた奴等に兄さんは、失職といふ石を投げ返したのだ!〃  勞働爭議は兄さんのような人達----科學の力に依つて永久に根絶するであらう、しかし人間の生活鬪爭は、階級と支配の爭奪は決して滅びるものではない……。」  今宵は何といふ靜けさであらうか----。彼女に對して諄々と説くアキラの言葉は、その靜かな夜の沈默のなかに溶けてゆく。  まだ一度も知らなかつた自分達の生活のプロセンス!。父のこと母のこと。それらがフイルムのやうにタズの眼と耳を流れた。 「勞働者に對する復讎は遂げられた。今度は母である、母の屬する女性への復讎を遂げなければならない。現代は女性が男性に對してその征服慾、支配權を露骨に發表してゐる社會である。女性が男性を征服する--それは人間進化の必然的な結果であるか----どうか、その結論は第二義として、人間的の批判を加へるなら、これは絶對に間違つた道である。  お前と兄さんの母は、その間違ひを敢行した。そのために女といふこと、母といふこと、妻といふことを忘れてしまつてゐるのだ。兄さんは、兄さんの生命の續く限りさうした女性達に反抗する--何よりも、兄さんは自殺した父の復讎を遂げねばならない!あの母の心をへし折つて父の前に悔いの涙で詫びさせねば、兄さんの生きてゐることが無駄になる!」  アキラは自分心自分の言葉に感激したらしい。立ち上つてぐい!と彼女の手首を握り占めたのだ。 「タズ、兄さんのいふことはまちがつてゐるか?」 「兄さん----」  ぼんやりとした寂しさ----。それは今迄から何度ともなく味はつた心の空虚ではあつたが、それがどうした亊からの寂しさであるかは考へたこともなければ、考へようとしたこともない彼女であつた。それに、かうもはつきりと哀しい不幸を見せつけられては、彼女の心は堪つたものではない。  アキラの説いたことが正しいものか----どうか、それは別として彼女はアキラのやうに頭から母を憎むことが出來ないのだ。といつて、自殺した父の心を又考へないわけにもゆかない。  彼女は母のやうに女性の完全な獨立といふことを望まない、しかし、それが惡いことだといふことも考へない。あるがまゝに、あるがまゝなものも甘受しやう、それが彼女の人生觀である。 「兄さん。」  ともう一度彼女はいつた。 「あたし、やつぱりあのお母さまばかりを……」 「怨むのがいけないといふのか、間違つてゐるといふのか?!」 「お母さまのしたこと、してゐることが皆な惡いことでせうかしら……?」 「惡い!皆な惡い!」  アキラのその言葉は命令である。 「なら、お父さまのしたことが皆な正しいことでせうか?」 「それは、兄さんにも判らない。けれ共、夫を見殺しにしてまでも自己の立塲に生きようとする妻はそれは善良な妻であらうか?」  またも二人の間が人道論に墜ちようとした時に、アキラは今の言葉を撲り飛ばすやうに腹立たしくいつた。 「理論は止そう、----それで、お前は兄さんの祝賀會へは行かないといふのか?----」 「…………」 「行かないのだな!?」 「否え!兄さん、行きますわ、あたし、お母さまにも一度會ひたい……」 「…………」  お母さまにも一度會ひたい、その彼女の言葉はアキラの胸にとげのやうに刺さつた。  アキラは酷く不機嫌な眼で、彼女から離れると卓子の上の小箱を抱へた。 「來月五日だぞ!忘れぬやうに!」  Subtitle  悲しき饗宴  Description  九月五日がだん/\近づいて來た。  そのある日、機械完成のしらせを待つてゐるアキラのところへ、突然思ひもかけぬ電話が掛つて來た。  アキラの機械製作を請負つてゐる工塲の全職工がストライキを始めたゝめ、機械の完成は當分望めない、といふのだ。  アキラはあわてゝ、ヒカルを連れてその工塲へ出かけて行つた。  工塲の社長は、ヒツソリと靜まり返つた工塲の中央にある亊務所で心配さうな顏をしてアキラを迎へた。 「一體、どうしたのです、何の原因でストライキを始めたのです?」  アキラは職工達に對する嫌惡をかくし切れず、いかにも苦々しげにいつた。 「原因はあなたの機械です」  工塲長の返亊は意外だつた。 「ヱ?」 「あなたの發明が餘り偉大すぎるからです、職工達は設計圖に從つて各々全體の性能を知らずに、部分品の製作をやつてゐましたが、突然シラ・ソウ夕といふ男が現はれて、その機械の性能を知らせたのです」  高壓電力無線輪送機の完成が、いかに多くの失業者を出すか、といふこと、それはアキラが意識的に企畫したものであるだけに、一さうハツキリと職工達に判つた。  シラ・ソウタの煽動的な演説に逢つた全職工は、自ら自分達の首を斬られるギロチンを製造してゐることを知つた。 「高壓電力無線輪送機の製作を中止しろ」 「勞働者の脅迫機械をブツ壞せ」  さうした叫びは遂にストライキとなつつ現はれた。  同機の製作をやめるといふ言明を得るまでは、一人の職工も就業しない----さういふ意味の要求書を叩きつけて、今朝全職工は一人殘らず、工塲から引揚げた。 「全く弱つてしまひました」  社長は途方に暮れて語つた。 「そして機械はどの程度まで進行してゐるんです?」  アキラは社長の苦衷も聞かず機械のことを問ひたゞした。 「まづ九分通りまではでき上つてゐるといつて良いでせう」 「斷然、仕亊はつゞけて貰はねば困ります、あなたがこゝで腰を折つて、私の機械の製作を中止することは、あなたや私達の屬する地上階級が、職工達の屬する地下階級に屈伏することです。それはあなた個人の問題ではありません」  アキラは亢奮を押し切れなかつた。自分の父の屍に石打つた勞働者が、今度は自分の機械を破壞しようと企てゝゐるのだ。 「負けて堪るものか!」  アキラは科學者としての冷靜をいつも父と母のために失つた。  アキラの熱情は、ひとたび燃えるとなか/\消え去らなかつた。 「もし職工が一人も來ないやうだつたら、僕ひとりで、殘りの仕亊を完成します」 「そんなこと……」 「いやできます、百人の職工の力は一個の機械の力に及びません、もしこの機械の完成のために、千人の職工を必要とするならば、十個の機械があれば、それで十分です、僕は飽くまでそれを斷言します」 「…………」  社長もアキラの熱し切つた言葉にはむしろ呆れて返亊に困つた形だつた。 「とにかく一度拜見させていたゞきませう」  さういつてアキラは立上つた。 「妾、ご一しよに拜見しても、いいでせうか?」  ヒカルも立上りながらいつた。 「いゝですとも、いらつしやい」  三人は人つ氣のない空洞のやうな工塲へ來た。ガランとした工塲の中には魔もののやうに聳え立つてゐる大きなダイナモ、蜘蛛の巣を張りめぐらせたやうに、うつかり足の入れ塲もない位交錯してゐるべルト、巨人の手足のゃうにそそり立つている奇怪な型をした鋼鐵切斷機、等等等----みんな不氣味な沈默のうちにすべて運轉を中止して、眠つてゐるかのやうに見えた。 「それで九分通り出來てゐるといふのは?」 「鑄物工塲の過程はスツカリ完成してしまつてゐるのです。だから外形は完成したといつて良いでせう。たゞ内部の重要な部分がそのまゝになつてゐるのです、つまり祕密工塲の過程が殘されてゐるわけです」  アキラの機械はみんな組立工塲の方へ廻されてゐた。  恐ろしく分業化された工塲では、あらゆるものの製作に從亊する職工は、その受持ちの部分だけを知つて、それがどんな機械になるかを知らなかつた。  ある職工は十年間も鐵板に穴をあける仕亊ばかりしてゐた。  ある職工は、ローラー機械から流れ出る薄い鐵板を積み重ねる仕亊だけを十五年もつゞけてゐた。ある職工はコイルをまきつける仕亊を二十年も前から毎日々々くり返してゐた。  さうして出來上つた各部分品は、組立工塲へ廻附される。  そこで、熟練工が技師の指圖に從つて一個の備はつた機械に組立て上げるのである。  アキラの機械は半分ばかり組立てたまゝになつてゐた。  一つはかなり大きな送電機だつた。もう一つは、餘り大きくないコントローラーだつた。送電機は從來の送電機に附屬せしめて、この機械に電流を通じることによつて、何十萬ボルトの交流電力も、途中で消費されることなしに、これまでの約十倍も遠距離に無線輪送することができた。  コントローラーはアキラの最も苦心したところだつた。  この一個の小形なコントローラーは飛行機や汽船や自動車や汽車や、何にでも据ゑつけることができた。  このコントローラーは變壓機があつて、受電したボルテーヂを更に數倍に擴大することができた。そしてそれを機關室の發動機に誘導する性能を持つてゐた。  このコントローラーが今度のアキラの發明の生命だつた。 「組立てなんか二、三日もあれば十分できますよ、問題は祕密工塲の方ですね」  アキラは、そこに投げ出されてある機械の分子を悲し氣に眺めながら誰にともなくいつた。そしてその足で祕密工塲へ向つた。  祕密工塲の入口まで來たとき、アキラはフト足を止めた。 「ヒカル。氣の毒だけれど、あなたはこゝへ入つていただけない」  いまゝで默つて、アキラのあとからついて歩いてるたゞけのヒカルだつた。突然かういはれると、心持ち彼女の頬に血の上るのを見逃せなかつた。 「アラ、何故ですの?」 「判つてるぢやないか、こゝは祕密工塲なんだ。僕の發明の心臟部が仕舞つてあるところなんだ」 「ぢやあ猶更拜見したいと思ひますわ。ハナド、妾はあなたの助手ぢやなくつて?」  ヒカルの瞳はヂツとアキラの眼を射た。初めて逢つたときから恐れてゐる瞳だつた。しかしアキラはその瞳を射かへして答へた。 「それは判つてゐる。しかし、このキカイについては、あなたは僕の助手としての資格はない。すでに完成した後だから。」 「でも………」  祕密工塲へ入ることを許されない、さう宣言されることは、助手としての不信任を宣言されたと同じことだつた。  ヒカルの眼には涙が光つた。次の言葉が出なかつた。 「でも………。妾、あなたの助手でございますわ」  やつとこれだけいつてハンカチを眼にあてた。  しかしアキラは冷然と見かへりもしない、彼は社長に眼くばせして扉をあけさせた。  社長につゞいて入らうとするアキラの腕にヒカルはすがりついた。 「ハナド。あなたはどうしても妾をなかへ入れてくれないんですか」 「仕方がありません、これは科學者としての僕の立塲がさうさせるのです」 「ハナド、ではあなたは妾を、あなたの助手を信任しないといふんですね」 「ヒ力ル、氣をわるくしてはいけない、あなたはハインリツヒ教授と、タキとの二人まで推薦者を持つてゐる、僕はあなたを絶對に信任してゐるんです」 「では、こゝへ入れてくれても良いじやありませんか、ねヱ、ハナド、お願ひです、ごなきや妾、あなたの助手として何の資格がありませう。」それに引つゞいて「この機械を製作することになつたときあなたは助手をいつも除けものにするつもりなんですか?」 「特許が下りたら、喜んで詳しく説明しませう。ヒカル、この機械だけは誰ひとり見せてゐないんです。こゝの技師だつて、恐らく部分品だけは知つてゐても、組立てゝ出來上つたものゝ性能は知らないでせう、祕密工塲といつても部分品だけで、その組立ては更に別室で僕が立會つてやることになつてゐるんです」 「ぢやあ尚更こゝへ入つたつて良いぢやありませんか、部分品を見た位で、妾にその祕密が判ると思つて? また判つたつて、あなたの忠實な助手がどうかすると思つて?」  アキラは沈默した。 「ねヱ、ハナド、お願ひです、入れて下さい、妾第一、こゝの社長に對しても羞しいぢやありませんか、ねヱ、後生です」  ヒカルは眼に一ぱい涙をためて哀願した。 「ねヱ、ねヱ」  アキラの腕を握つて、顏を胸にあてゝ、すゝり泣いた。  アキラはヒカルを胸から離した。 「お入り」  ブツ切ら棒にさういひ放つて、アキラはなかへ入つた。 「まあ! うれしい」  ヒカルもつゞいた。涙はあとかたもなかつた。  さつきから二人の入るのを侍つてゐた工塲社長は、部分品を入れた箱の鍵をアキラに渡した。  約二十個ばかりの箱を一々開いて、部分品の一つ一つを熱心に檢討してゐたアキラは、ものゝ一時間も立つてから、漸くそれを終つた。  ヒカルもアキラについて、一つ一つ熱心に見た。かゞやいた眼はさつきまでの女性のそれとはちがつた冷たい刄のやうな科學者の眼だつた。 「社長、大丈夫です。これだけ揃つてゐればあとは十日もあれば僕が二三人の技師を相手に作つて見せますよ。大丈夫です」  彼の聲は元氣だつた。  その翌日からアキラは工塲へ通つた。信用している三人の技師を相手に、一日中祕密工塲に立てこもつた。  仕亊は着々と進行して行つたけれども、ミムラ頭取と約束した九月五日は、その完成を待たずに來てしまつた。 「完成することはきまつてゐるのだ、別に多數の人に迷惑をかけて宴會を延期することもあるまい」  ヒカルが祝宴の延期をしたらどうかとたづねたとき、アキラは無頓着にこう答へた。  ----でアキラの發明完成祝賀會は、始めの豫定通り、九月五日の晩、ホテル・アジヤで開催され た。  × ホテル・アジヤ----。  光の家!享樂人の夜!。  ホテル・アジヤは輝かしい。踊つてゐる。醉つてゐる。夜をこめてホテル・アジヤは浮かれ廻る。時計の針が一分を刻むごとに、照明燈がホテル・アジヤの化粧を變へるのだ。  グリーン!。ガンボージ!。レツド!。コバルト!。カーネーション!。  なんといふ眼まぐるしさであらう。その五色の光りを割いて、人人はこの華美な建物の中に吸はれて行く----。  〃HOTEL AZIYA〃  屋上に飛行機の着留所が設けられてある。光りの帶がすーと此の着留所で停止した。  飛行機だ!。  乘客が黒豆のように屋上に吐きだされてゐる。  ヱレベーターの活動が始まつた。上へ----、下へ----。  〃ホテル・アジヤはまるでキカイだ!〃  黒豆のような乘客が、見る/\間に、建物の内部へ吸はれてゆくのがキカイ的である。  × 十階----大ホール。  光りと色彩----こゝは湖の底を思はせる。室内のおびたゞしい男女が、まるで海草のようにゆらめいてゐるのだ!。  ホールの入口にこんなビラが掲示されてゐる。  HANADO-AKIRA,  SYUKUEN-KAIZYO  ハナド・アキラ祝宴會塲。さすがに商工都市の巨頭連が主催する祝宴會だ。まことにその會塲は、黄金萬能の社會を如實に語つてゐるではないか----。  黄金萬能時代の誇りと美の爛熟。極致である。  ボーイがこゝでは人造人間でしかない、次から次へ入つて來る人を待合室に案内する。  ミムラ頭取の首唱は日本の殊に關西のあらゆる財界名士をこゝに網羅してゐた。  人々は今夜の主客がアキラの偉大な發明をいろ/\と評判した。 「誰がこのキカイの權利を得るか、といふことがわれ/\の最も興味を惹くところですね」 「本當にさうです。が、さういつてゐるあなた方など、すでに大活動をやつてるんぢやないですか」 「まさか、ハヽヽヽ」  つと、人々は話をやめた。  アキラが入つて來たからだつた。美しい女性を連れて----。 「あの人は何ものだらう」 「ハナドの夫人ぢやないかね。」 「イヤ、ハナドはまだ獨身だ、戀人かな」 「イヤ、ハナドは有名な女ぎらひだ、戀人ぢやあるまい、しかし素晴らしい美人だ」  人々はヒカルの身上に一せいにゴシツプを飛ばし始めた。想像をたくましうした。 「アラ、タキ先生!」  人々の間に混つてゐたタキ・ハルキを逸早く認めたヒカルは、小走りに驅けよつた。 「よう、ヒカル、久しぶりに逢ひますね」 「先生、いつぞやは、少しもいらつしやらないのね」 「少し忙しいもんですから、おゝ、ハナド、今夜はおめでたう」 「イヤ、忙しいなかをわざ/\」 「先生、一度いらつしやい、それとも私からお訪ねしてもよくつて?」 「どうぞ」  ハナドはヒカルを連れてミムラ頭取のゐるところへ行つた。 「今夜はありがたう、お禮申します」 「忙しい中をどうもすまない、しかし御覽の通りの盛會でわしも骨折がひがあつたと、よろこんでゐますぢや」  云ひながらミムラはヒカルに眼を止めた、 「紹介します、僕の祕書ミナミ・ヒカルです」 「どうぞよろしく」 「イヤ、わしはミムラ・タカシだ。よろしく。ホホウ、少しも知らなかつたが、ハナドはなか/\いゝ人を雇つたね」  ミムラはニヤ/\笑つた。 「ハナドの祕書ださうだ」  待合室には直ぐに傳令が飛んだ。 「そんなことだらうと思つたよ、だが、とにかく素晴らしい女性だ」  ヒカルはミムラともう十年も前から知つてゐるやうに話した。  次から次へ、ミムラはハナドとヒカルを人々に紹介した。 「どうぞよろしく」  媚を含んで挨拶するヒカルの態度は、女性の地位が向上して、男を踏みつけにしてゐる今日では、むしろ珍らしいほど、淑やかでありあでやかでもあつた。  女性の地位を肯定しながらも、なほ五十年百年前の淑やかな女性をなつかしがる男性共通の感じは、忽ちのうちにヒカルを好ましいものに思はせた。     ×  十時!  一秒を間違へず開宴のべルが嗚つた。  人々はざわめきをやめて、それぞれのテーブルに着席した。  メーンテーブルにはアキラを中心に、母親のセキ、妹のタヅ、そしてヒカルが坐つた。  前にはミムラ頭取とタキ博士を挾んで諸名士が星のやうにならんだ。 「さて----。」  席がきまると、ミムラ頭取は立上つた。 「こんや、この盛大な會塲に、われ/\の天才兒、若きハナド・アキラ君を迎へて、その仕亊の祝宴を催すといふことは、愚老ミムラの此の上もない喜びとなすところであり、併せてこの祝宴の司會者に選ばれたことは望外なミムラの光榮であります……」  ミムラ頭取の第一節の祝辭の言葉が終るいとまもなく、劇しい拍手が湧き上つた。  それを抑へるやうに彼は一段と聲を高めた。 「今、わたしが改めて皆さまの前でハナド君の仕亊の成功を申し上げることは、その仕亊に對して甚だしい不常識であることを、知らないわたしではありません、が、一言申し上げたいことは、ハナド君のやうな偉大な人間を、われわれの國に、われ/\の街に生んだといふことは世界に向つて誇り得る吾々の何といふ大きい喜びでありませうか。」 「實に無線電力給送機の完成は、人間の智能が自然を征服する可能のあかしであり、しかしてそれは人類が、地上樂土の創造主たるあかしでもあります----。  わたしはこの光輝ある祝宴の席上で、かう述べるわたしの言葉を歴史的なものとして、ハナド・アキラの健勝を祈る祝辭の結びと致しませう…………。」  室内にはち切れさうな拍手が再び起つた。その拍手に包まれて、ミムラ頭取が巨大な體躯を埋めると、その拍手に誘はれて立ち上つたのは、今晩の主客----ハナド・アキラである。  人々の眼は瞬間、アキラの顏に集中した。そのために更に湧き返つたのは拍手だ。  暫らくアキラは默笑を續けた。同時にその左右には、この偉大なる者に對する、母としての、妹としての二つの微笑が、人々の羨望のレンズを通して室中に跳つたのである。  拍手が靜まつた。アキラの答禮的なテーブル・スピーチが清朗な聲となつてそれにかはつたのだ。 「私を賞め譛へて下さる皆さま何の理論も約束もなく今夜、この席上に私をお招き下さいました皆さまの御芳志は、私がどんな感謝の言葉をもつてしても、たうてい報いる程の滿ちた言葉はありません………。」  こゝで、アキラはフラスコの水をのんだ。人々は拍手を忘れて、この偉大な若者の片言さへも、もらすまいと次の言葉を待つたのである。  室内は間斷なくグラスの壁を通じて五色の照明燈に色彩の波をうち續けたのだ。  冷靜な科學者としてのアキラの顏にも、次第に感激の血が速度を早めた。彼はぽん!と輕く卓子を叩いて次の語に入つた。 「皆さまは私の仕亊を國家のため人類のためと名づけて下さいます、けれ共その言葉は、現在の私の仕亊に適つてゐるものであるかどうか----私はそれほどのうぬぼれを自己の仕亊にもつ亊が出來ないのであります、おそらく私の仕亊は、そんな高いところから出發したものではありません、成ほど私は生命を懸けて、無線電力の輸送に成功したのは亊實であります。またこの成功によつて産業界が、どれ程革新されるものであるか、それは私の言葉を通じるよりも、皆さまの御思慮に委ねることの賢明であることを私はよく知つてをります、しかしこの利潤について樣々な方々から、樣々なお言葉を頂かなかつたわけでもありませんが、この利潤は、私のそも/\の出發に起原した一つの慾望に對する悲しい犠牲にほかならないのであります。私はそれを今夜、最後の席上の五分前に皆さまに公開したいと存じます。私のこの慾望に對して、よし皆さまの嘲笑があらうとも、かうすることにおいて、一個のハナド・アキラが滿たされるものであることを、どうか御含みを希ひます………」  四たび拍手は起つた。だがその拍手に、一抹の影があることは否めない。人々は意外なアキラのテーブル・スピーチに人間的なねたみと疑ひをもつたのだ。  殊にミムラ頭取の眼は、鋭く人人の上に放たれたのが、何を意味したものであるか、人々の眼はその巨大な瞳に怖れてゐるのが慥かである。  アキラが奇妙なスピーチを終つて席に着くと、何よりもそのアキラをキカイ的に優しみの眼で迎へたのが、母としては餘りに遠いはずのセキであつた。  人々は不可解な空氣の中で、ホワイト・ミンドのアルコールを浴び始めた。祝宴といふ名に對しても、今夜は人々の夢があらん限りに亂れねばならない。  強烈なホワイト・ミンドが人々の神經から心臟に叩き込まれた時に、輕快なコーラスが始まつた。祝宴の舞----だ。  No.1,"YUKI NO ODORI"  プログラムの第一番が掲示された。----「雪の踊り。」  掲示幕が更に次の文字を加へた。  THEATRE, HAZAKURA  "UZUKI, SHINOBU"  踊子が紹介されたのだ。その文字が掲示幕に現はれると、拍手が室内をゆるがせた。  テアトル・ハザクラの踊子、ウズキ・シノブ----。  彼女は夜の偶像だ!。享樂者の夜の街には、なくてはならない存在である。彼女を眼の當り見るためには、人々は----(金錢の奴隸の如き人々だ!)少しも金錢を計算しない。テアトル・ハザクラの宏壯な地上の建物が、もしウズキ・シノブを失くするとすれば、明日の日にも忽ち、それはなにかの會社の倶樂部に代つてしまふ程な素晴らしい人氣女優である。  二十一----彼女はまだ若い。青春は、それも興春煙の力をかりない青春の生きた血潮が、彼女の美麗な肉體を支へてゐるのだ。  今までから彼女の媚を得るために、幾人の人々が破産を宣告され、幾十人の人々が失意の自殺を遂げたことであらうか----。  しかし、彼女はどこまでも美しく、どこまでも朗かで、どこまでも無邪氣だ!。  〃彼女こそは永劫に咲く花、それは若人達にとつて、實に眞紅な太陽であつた----。〃  今、その美麗なる暴君が、室内に設置された移動スタヂオの上にその清艷な容姿を現はした。アンコールは續いて劇しくどよめいた。  清艷な容姿から、微笑が凡ゆる人々に振り撤かれる……。  巨金を投じた今夜の祝宴に招かれた微笑。----人々はその微笑の片々で滿悦し陶醉した。  〃彼女は美麗なる人生の魔術師だ!〃  まつたく彼女は不可解な人生の魔術師である。太平洋航空會社の女社長として、凡ゆる男性に君臨するハナド・セキも、この踊子、シノブの前には眼に見えぬほどの星でしかない。  音樂は、やがて彼女の容姿に美の變化を求めた。  雪の踊りが始まつたのだ!。  この時、始めてアキラはこの踊子の容姿に瞳を動かしたのである。  〃美なるもの〃  人生から、始めてアキラは美といふものを發見した。こんな美といふものが、黄金の奴隸!科學と權利と義務の人生にかうして存在してゐるとは、何といふ奇蹟だとアキラは不思議な新らしく發見した人生に向つて吐息せずにはゐられなかつた。  一瞬、かつて見たことのない奇怪な幻想が、アキラの胸をかすめたのだ!。  だが----、それは、その瞬間において完全にふみにじられた。 「アキラ。」  その聲だ。その聲の主は無論セキである。 「こんなことは妾がお前に聽くまでもないことだけれどね」  セキはこゝで、ホワイト・ミンドのグラス・カツプをほんのちよつとだけ舐めずつて、ちら!とアキラの顏色を讀んだのだ。  心持ちアキラの眼は光つた。  もちろんこの會話は他の人々の聽覺には觸れない。室内の神經がスタヂオヘ、ウズキ・シノブの肉體の運動にかためられてゐるのだ。  それをねらつてセキはこの會話をはじめたらしい。その口調には餘程のかけ引と自重が含まれてゐる。  次の言葉をもうアキラは知つてゐるのだ。知りながら、どこまでも、その知つてゐることを凡てセキの唇から吐き出させようとするのが、又アキラの最初からの策戰でもあつた。  それにうまくかゝつてきたのがセキである。 「お前、お母さまのいひたいことをお知りでない?」 「さ……。どんなことでせうか?僕にはどうも……」 「それはとても、お前として不似合な言葉ですね----?」  仰へてゐる暴君の本能が微ではあるが言葉のアクセントに突き上つた。  アキラは默つて苦笑したので。  ----と。劇しいアンコールが湧き起つた。見ると、シノブの姿がもうスタヂオの上には見えない。同時に掲示幕を、第二のプログラムの文字が流れた。  NO2. Tsuki No Odori  ==Uzuki Shinobu==  第二の曲目に移つたのだ!「月の踊り」がはじまるらしい。  經過----五分間。  再びアンコールに誘はれて、すつかり容裝をかへたシノブがスタヂオに現れた時に、慌てゝセキはアキラの眼をシノブから奪つたのである。 「お前ね、アキラ----。」 「………?」  アキラは默つてシノブから眼を外らすと、これからだ----といふ鬪ひの用意をかたく結んだ唇に盛つたのである。 「ね、アキラ……」  こゝでセキは次の言葉をどう選ぶかに迷つたらしい。亊業家として對するか、母として對するか。  けれ共、セキはたうとう母としてアキラに對することが最も安全な策戰であると決したのだ。彼女は急に----おそらくは今までに一度も見たことのない優しい眼でアキラの深い沈默に觸れた。 「妾を今でもやはり母として尊敬してゐてくれるだらうね?」 「え? 母として………」  だが、にえ返る怨怒をアキラはぢツと押へることが出來たのだ。 「お母さま!」  妙に腹を探り合つてゐるのがアキラには堪らなかつた。 「お母さまは何故もつと、ほんとうのことをおつしやらないのです?僕はあなたの子供ではありませんか、あなたはその子供に對してまでも、話を弄ばうとなさいますか?」 「お前、なんといふことをおいひです、妾は何も話を弄んではゐない!」  最初のセキの決意がほんの少しくづれて落ちた。 「なら、お尋ね致します、母と子の尊敬問題が一體何んの本意です? それをはつきりと聽かして下さい----。」 「お待ち。」  セキの唇は微かに慄へた。 「お前、そんなことをいつて妾を困らせようとするの? 母として尊敬できない、といふことを妾に默示しようとするの?」 「もし----さうだつたら?」 「妾はお前に命令します、それは母の權利です」 「その命令とは?……」 「なにごとも、妾の意に從へさせるといふことじやありませんか!」 「たとへば?」 「たとへば----今後のキ力イの權利にしたつて、當然その權利は、お前のもの、同時にこの母のものです!」 「キカイの權利をあなたのものとする? 無論それに反對する僕ではありません、けれども、キカイの權利をあなたのものにする前に、僕はあなたに實行してほしい約束があります----。」 「どんな約束ごとかしら?」 「なんでもありません、この小箱の前で悔いの涙を捧げて下さい、血にまみれてゐるお父さまの靈にひれ伏して、過去のあなたをお詑びして下さい!!」  とつさに卓子の下から取り出した小箱を、アキラはぐツとセキの前に突き出したのだ。三十年の生命を洗つてアキラの全能が火柱をたてた。 「今までのあなたは黄金のミイラです! キカイの化け者です!どうか女性の本然に復つてお父さまに詫びて下さい!」  アキラの聲に涙が滲んだ。 「アキラ!」  劇しい怒氣に煽てられて、セキは亊業家としての冷靜を失つた。  ----時。  人々のアンコールが二人の感情を叩き着けたのだ。しかし、セキはそのアンコールに叩き着けられなかつた。一度、火を吐きはじめたセキの感情は、相手を碎き凹まさねば承知しない怖ろしいライオンの獸性に戻つた。  ぶる/\と慄えてゐたセキの手が、そのふ箱に觸れたかと思ふと忽ち小箱は、アキラに向つて跳ね飛んだのだ。 「狂人!そんなことで、たつた一つのキカイの權利で、この妾を凹まさうとする大馬鹿者! 誰れがそんなものに詫びるものか!詫びる義務があるものか! 女には女としての自由と權利が許され てゐる!」  バネのやうにアキラは立ち上つた。その眼は最後の決意に光つたのだ。  しかし、この怖ろしい母と子の鬪爭も、醉どれにどよめく人々の眼と耳に何の注意も誘はなかつた。  人々はスタヂオヘ、ス夕ヂオヘとひしめき寄つて、ウズキ・シノブに握手を求めてゐた。  立ち上つたアキうの手に瞬間握られたのは怖ろしい殺人光線を放射する電銃である。銃口は無論、セキの胸部に向つたのではなくて、自らの生命を絶つために、自らの心臟に當てられた。 「父よ! アキラの全能をもつてしても、母を征服することの不可能を知りました!」 「あ!兄さん」  この時、しつかりとアキラの胸に縋りついたのはタズである。タズは力の限りを盡して、アキラの手に握られた電銃をもぎとつたのだ。  さうしてタズの眼は一抹の怨涙と共にセキを凝視めた。 「お母さま! 不幸な、不幸な兄さんを殺さないで下さい、兄さんはお母さまを尊敬してゐます!尊敬してゐます!」 「お默り! タズ。僕は、僕はキカイや黄金のミイラを尊敬しない。子のために一つの子守唄も知らない母を、僕はどうしても尊敬することは出來ないのだ!」  その言葉の終らない間に、卓子の上に置かれてゐたホワイト・ミンドのグラス・カツプが、セキの手によつて投げられた。 「あ!!」  悲嗚を上げたのは、アキラではなくてタズである。タズの兩眼からは、忽ち火のやうな血が、その抑へてゐる指を傳はつて、ぽと!ぽと! と流れ始めた。 「皆さま!!」  アキラは血に叫ぶ妹を抱き占めて、人々の醉どれの耳に呼びかけたのである。  人々は血を吐くやうなアキラの言葉に、はじめてスタヂオからの神經を解いた。 「今夜のこの光輝ある祝宴も既に閉會に近づきました、僕は最初の約束通りその五分前に僕の宣言を果します。  〃僕のキカイの權利全部は、ミムラ頭取に委ねます!〃  この宣言は、併せて今夜の皆さまに對するハナド・アキラの感謝の辭でもあります!」  言ひ切ると同時に、彼は追はるるものゝやうな態度で、タズを抱きしめたまゝホールを驅け去つ た。  人々はたゞぼんやりと狂的に近いアキラの行動を見送るほか、それがどうした意味であるかさへも判斷がつかないのだ。  セキは無闇にグラス・カツブの液體を浴びはじめた。彼女の眼は獸的に光つたのだ。  ざわめきの渦紋の中で、同じやうに騒いでゐたミムラ頭取は、意外なアキラの宣言に、暫らくは自分の耳を疑つてゐた。けれ共、次の瞬時には、その疑ひを決算した。 「ミムラ頭取を祝福せよ!」 「ミムラ頭取の榮光を祝せ!」  人々は雙手を揚げてミムラ頭取を祝福した。まだそれで足りない人々は巨大なミムラ頭取を胴上げにするとて、大ホールを驅けずり廻つた。  五色の光彩は、同じ室内に起つた悲しみと歡びを、寸分の狂ひもなく染め續けてゐた……。  この間、アキラの傍のテーブルにかけてゐたヒカルはどうしてゐたか?  彼女はすぐ自分の隣に腰をかけたタキ博士と一心に話を交してゐた。  ウヅキ・シノブのダンスの素晴らしさに見惚れてゐた。人々と一しょに吾を忘れて拍手を送つた。  呑みなれないと見えて、少し醉つたやうな樣子だつた。心持ち態度がくづれてタキ博士によりかゝるやうな姿勢を、直さう/\としながら、直せないでゐた。  ----が、アキラとセキとの談話がだん/\緊張して行くのを、彼女は見逃さなかつた。  ハラ/\しながら、それでも話のなかへ入りかねている樣子だつた。  アキラがピストルを握つた瞬間、しかしそのとき、ヒカルはタキ博士に引張られてステーヂの方へ行つてしまつてゐた。  人々の騒ぎをあとに、アキラがホテルから立去らうとしたとき、彼女はタキ博士の腕を逃れてアキラを追つた。  しかし、そのとき、アキラの姿は、ホテルの玄關を出た自動車の窓ガラスを通して、彼女に後を向けてゐた。 「ハナド……」  高く呼んだけれど自動車は止らなかつた。 「ミムラ頭取を祝福せよ」 「ミムラ頭取萬歳!」  ミムラ頭取を祝福する歡聲は、まだホールのまんなかにどよめいてゐた。  殘されたヒカルは再びそこへ歸つて來た、そしてミムラの傍へ寄つた。 「ミムラ、おめでたう」 「よう、これは、美しいハナドのアシスタント。----さあ、一しよに呑みませう」 「ありがたう、でも妾、弱いんですもの」 「なあに、大丈夫、僕が送つてあげますよ」 「まあ!本當なの。妾ハナドにおいてけぼりを食つたんですわ」  さうして、人々はこの美しい女性とミムラを中央にして、今度はミムラ・タカシ祝賀會と、早變りをした祝宴のグラスを高らかにあげて、歡樂の泉を飮み干した。 「ミムラ頭取、本當に妾を送つてね」 「大丈夫、大丈夫」  二人とも醉つてゐた。  アキラヘの祝宴がミムラへの祝宴にかはつたホテル・アジアのその夜の饗宴は、深夜の三時ごろやうやく終つた。  一時にホテル屋上の飛行機發着塲から、澤山の小型飛行機が、四方八方へ飛び散つた。  一方玄關からも自動車の行列がつゞいた、飛行機の輕快よりも、自動車の莊重さを喜ぶ人々の多いブルヂヨア階級の人々であつた。  ミムラも自動車に乘つた。  醉ひつぶれるやうにクシヨンに身體を埋めた彼を、抱きかゝへるやうにしながら介抱してゐるのはアキラから取り殘されたヒカルだつた。 「どちらへ?」  運轉手が聞いた。 「ねえ、ミムラ、邸へ歸る?」 「うん----む……」  口の中で何か云つたやうだつたがヒカルには判りかねた、しかし運轉手は直ぐハンドルを動かし始めた。 「判つて?行き先が」 「はい、判つてをります」  自動車は郊外のアスフアルト道を疾走した、街路樹のトンネルをくぐり/\何十マイルか走つて行つた。 「ミムラの邸はこんな方にあるの?」  ヒカルはミムラが眠つてゐるので運轉手に話しかけた。 「はい、御別莊の方でございます」  やがて、美しい湖の畔を自動車は走り出した。  キカイのやうな都市の建物とちがつて、湖畔に散在する住宅は、白や赤や青や、美しい彩色さへも持つた玩具のやうな瀟洒な姿だつた。  月の影にてらし出されたその一群はまるで夢の國の世界だつた。 「まあ!美しい」  ヒカルは窓外の景色に見とれた。 「おう、もう歸つたか」  寢てゐるはずのミムラがバツチリと眼をあけた。自動車はとある家の前にピタリととまつてゐた。  恭しく運轉手がドアをあける。よろめきながらミムラが降りる。 「さあ、どうぞ、あなたも御一しよに!」  ミムラがヒ力ルの手を執つた。 「お邪魔に上つても良い?」 「こんなにおそくレデーを一人で歸すといふ法はありますまい、ハツハヽヽヽ」  二人は家へ入つた。  パツト明るい電燈が窓の外に漏れた、召使ひ達が甲斐/\しく、洋酒やソフトドリンクスを部屋へ運ぶ姿がのぞかれた。  まあ、おかけ、今夜は朝まで飮みますぢや、あなたもつき合つて下さい、ハツハヽヽ」  ミムラは上機嫌だつた。  ヒ力ルは華麗をきはめたその部屋のソフアに身體を投げかけてゐた。 「妾、もうスツカリ疲れちまひましたわ、とても朝までおつき合ひはできませんわ」 「ぢやあ、すぐにも寢ますかね」 「ヱヽ、妾、あなたおひとりで飮んでゐらつしやい。」 「イヤ、ひとりぢや、あまり面白くない、ぢやあ、飮むことは、今度まであづけておいて今夜は早く寢るとしませうかね」 「ヱヽ」  召使は食卓を引いて去つた、部屋にはヒカルとミムラの二人だけが殘つた。 「いけません!」  ヒカルの魅惑的な姿を、たゞ一人眼の前において、ミムラ頭取の心猿が狂ひ出した。  つとのべてヒカルの首にまきつけたミムラの手を輕くほどきながら、ヒカルは叱つた、しかしその顏には微笑が漂つてゐる。 「お坊ちやん、早く寢んねなさいね」  ヒカルはとう/\その夜アキラの邸へは歸らなかつた。  Subtitle  グラス、ハウス  Description  湖岸----。  小波の囁き、朝の光りにきらめく波のひれ。  す----と霞に包まれて走る漁船の微に尾をひく波面のうねり。  九月の深い緑に埋もれてゐる湖岸の森から森に點綴する水晶の家……。  こゝは商工都市に活躍する人々の居住地だ。市街からこゝは二十里も北の地點だ。  グラス・ハウス! 水晶の家の屋上には、どの屋上にも飛行機の格納庫が設置され自家用の高級な小型飛行機が備へられてゐる、この飛行機は、ハウス・ヒロインを僅か十五分で商工都市に運ぶのである。  朝の、湖上の霧がすつきりと晴れると、湖面には輕快なランチが波を切つて縱横に走る。居住地の人々の朝の運動だ。  ×ウズキ・シノブの家----。  紺青なバベの葉の繁つてゐる岸にア力デミツクな水晶の家がある、ハザクラ・テアトルの人氣者ウズキ・シノブのサムマー・ハウスだ。  眞紅なカーテンが十二の窓を閉してゐたが湖面の霧が晴れる頃に、そのカーテンが絞られた。  十二の窓には掃空機が廻轉を續け、七つの室を通じて冷空機の管がめぐらされてゐる。  家の周圍は夏のお花畑だ。雜混種の夏草の花が、一面に咲き亂れてゐる、南洋猿が小猫のやうにお花畑を飛び跳ねてゐる、多分シノブの晝の戲れの相手であらう。  一人の少女がお花畑に現れた。  彼女はこゝの召使ひの一人だ。  おどけ者の猿が彼女に戲れを初めたが、彼女は知らない顏でお花畑の中から五六本の白百合を摘み採ると、慌てゝ家にかき消えた。  ×シノブの部室----。  めざめたばかりのシノブが、大きい姿見の前で、入念な朝のお化粧を始めてゐる。  白百合を摘んだ少女がこの室に現はれた。 「お早うございます………」  少女は朝の最敬禮を捧げる。鏡の中のシノブの顏が微笑んだ。  少女は姿見の敷ワクに吊るされてゐる花筒に、その白百合を投込むと、靜かに目禮して室を去る。  姿見の前を去つたシノブはちよつと白百合の花に口吻けをして卓子の前に置かれた絹張りの肱掛け椅子に身を沈めると、寶石のちりばんだシガレツト・ケースから、細い金口を二本の指で摘み出して自動發火器のボタンを叩いた。  漸て仄かに紫紺色の煙が一筋、彼女の眞紅な唇から吹き上げられたのである。  圓い輪が窓の外へ一つ、二つ、三つ……。  この時少女は冷たいオレンヂ水を運んできた。同時に少女の手には今朝の新聞が持たれてゐる。  少女が去ると、彼女は金口を捨てゝオレンヂ水のカツプに唇を寄せた。  一杯の冷たいオレンヂ水に朝のめざめを結んで、彼女は少女の手に運ばれた樣々な新聞紙に眼を流した。 「ま!素的!」  ぱ!と火華のように彼女の眼が散つたのだ。成程、それも道理である。第二面のカツトに彼女の素晴らしい次週の曲目のポーズが掲載されてゐるのだ。   〃SHINGUN〃  進軍!。なんといふ壯快なポーズであらうか。人生の進軍をそのまゝに表徴した軍神の、それはスタヂオに描くウズキ・シノブの素畫である。 「おゝ!素的!」  もう一度、同じことを彼女は繰り返した。繰り返した心の中で、彼女は今度こそ!と樂しんだのだ。  それこそ、全世界の人々が、かくあらねばならない進軍の姿を、自分の藝術の頂點において見出す日の想像に跳躍したからである。  少女は再び現はれた。彼女はおびたゞしい手紙の山積されたケースを兩手に抱へて現はれたのだ。  彼女の贊美者、彼女の忠實な子供達が、憧憬と惱みの心臟を包んで、彼女に捧げる切々哀々の無聲の言葉である。  少女が去ると、今度は酷く亊務的な四十女が現はれた。 「旦那さま、まことに結構な朝でございます……。」  この四十女は手紙の整理係である。女は、すぐにも卓子の上に置かれた幾百通とも算へ切れない手紙を默つて部屋の窓際のデスクの上に運んで、驚く程キカイ的に手紙を開封し、手紙の返書をタイプで打つ。  KAWARANU ANATANO  GOKOI O KANSYA ITA  SHIMASU    UZUKI SHINOBU.  女の打つ文字は、どの手紙に對しても同じことだ。 「變らぬあなたの御厚意を感謝致します」  彼女が朝食のために部屋を去ると間もなく、一人の老人がこの部屋に通された。  彼は少女に指定された室の右側の長椅子に、遠慮勝ちな座を占めると、腕を組んで寂しい瞑想に墮ちたのである。  四十女はデスクに向つたまゝ、この老人には見向きもしないで相變らずキカイ的に動いてゐる。  二十分も同じ部屋の配景が經過したであらうか----。  朝の食堂から、シノブは輕快な足どりで戻つて來た。恭々しく彼女を迎へたのは老人である。 「先生、結構なお天氣さまで」  老人は曇つた眼の中で、愛想よくにツと笑つた。 「あなた、大變早いのね----まあお掛けなさい。」 「はい、有難うさまで----」  けれ共、老人は立つたまゝである。何故かいぢらしいほどの敬意を此の老人は拂つてゐた。  少女がまた現はれて、美爪術師が通される----。十本の指を弄られながら、シノブは、さながらこの人生に忘れ去られた人を思はせるやうな老人の曇つた眼にかう呼びかけた。 「あなた、何か御用?」 「はい。」  老人は慌てゝかくしを探りはじめた。  漸く老人の慄える手に握られたのは二三十枚の原稿紙である。 「これを----ひとつ………。」  いひながら老人はその原稿紙をシノブの前に差し出したのだ。 「ストーリ?あたしの?」 「はい、左樣で………」 「なんといふの?」 「超人の舞!」 「ダンス・シユーパーマン?超人の舞つて----大變、面白さうね、でも此の間のやうな暗い寂しいものぢやない?あたし、あんなもの大嫌ひ!」 「…………」  老人は眼をしばたゝいて、うなだれた。おそらく彼女の言葉に對して、老人ははつきりと答へるだけの自信を此の作に見出し得なかつたのであらう。 「あなた、讀んで見ない?」 「…………」  老人はうなだれたまゝ默つてゐる。老人は心の中で思つたのだ。  〃----清朗な百合姫よ、わたしにも興春煙が吹かせたら、姫の喜ぶストーリが書けませうもの を----〃  老人は諦めた。黄昏の人生を、哀しい生活に敷き詰められながら生きる老人に、どうして青春の夢が書けよう……。 「お待ち!」  諦めて力無く去る老人を、シノブは呼び留めた。  呼び留められて、ふと見返つた老人の眼頭に光るものがあつたのだ。涙ではないか----。 「あなた、歸る?」 「はい……。」 「どうして、歸る?」 「はい、とてもこのストーリは先先の……」 「氣に入らない----とでも、言被る?」 「はい……」 「暗いもの?寂しいもの?」 「人生に疲れた暗い寂しい人間の哀れな吐息で御座います」  老人の眼は沈んだ。  シノブは幾本目かの金口を咥へてゐる。 「さようなら、先生……」  ----と。  不意に劇しいべルが鳴つた。中央天候調節所が湖岸一帶の暑氣を洗ふために雨を降らすといふ十分前の豫報である。  思はず老人は立ち停つた。彼の眼は豫報機に滑つた。  〃降雨----三十五分間〃  老人は溜息を吐いた。 「お掛け。」  命令的なシノブの言葉である。 「…………」  老人は默つて再び遠慮勝ちに座を長椅子に占めた。  人造の降雨が始まつた。 「あなた、そのストーリに當がある?」  雨の音を聽きながら、シノブは老人に囁いた。 「どこといつて、わたしには」  死んだやうな聲であつた。  シノブは手金庫から二枚の紙幤を摘まみ出して、それをぽん!と老人の膝に投げ捨てた。 「お取り。」 「え!?」  老人は慄える手で二枚の紙幤を握り占めると、その眼を露のやうに光らせたのだ。 「こんなに頂いては……?」 「ほんのあたしの心持ちだけ--。」 「…………」  人造の雨は降り續けた。  人造の雨が止んで、ストリーマンの老人が歸つて、間もなくこの部屋に現れたのは、シノブの兄のウズキ・ジユンだ。  巨躯豪放、シノブの兄には相應しくない太い神經の男である。鬪士にはあり勝ちな----彼は鋼鐵の意思をもつた男だ。  物質文明の爛熟、黄金と科學の尖端に、凡ゆる人間性を忘れた生活のミイラに向つて、一大民族運動を起してゐる男である。  けれ共、あくまで自我に生きようとする自我の生活者には、この無名の一青年が叫ぶ民族愛の人間的なめざめを、むしろ反逆者として嫌惡した。  世に迎合されざる者の悲哀。しかしジユンはあくまでも自己の信念で築いた軌道を走る鋼鐵車だ!風雲を好む冒險者だ!  シノブはさうした兄の訪問を、細い金卷の紫紺色の煙の輪で包んで終つた。  少女が珍らしい水菓子を皿に盛つて現はれた。 「シノブ、大變にうまさうな水菓子ぢやないか----?」 「えゝ、草葡萄ですもの。」 「あの、芳水園で出來た奴か?キカイのやうな人間が、キカイの力で作つた奴だな。」 「兄さん、どうしてキカイ、キカイつておつしやるの?」 「己れは魂のないものを嫌惡するからだ!」 「兄さんの運動に味方をするものはキカイだつて好きでせう?」 「バカ。キカイが、ミイラが己れの運動、神聖な民族愛を知つて堪まるか!」 「なら、最初から駄目なものと解つてゐて、何故運動を續けてゐるの----?」 「ハヽヽ。理窟をいふな!今に己れの意思が創造主に通じるのだ。凡てはそれからだ!、アジヤがアジヤ民族のために樂土として與へられる日こそ己れの運動の解る日だ!」 「それまでは?」 「うるさい亊を聽くな!それよりも金を貸せ。」 「また?」 「又ぢやない。己れはそのためにお前の存在を認めてゐるのぢやないか。」 「そのためのキカイとして?」 「そんなことはどうだつてよい。お前がこの己れの生命を保證することによつて、お前の今日の生命が神聖なものに役立つてゐるのだ----。」 「ありがと。あたし立派な兄さんをもつてゐることになつてるのね、光榮よ----。」  に!と微笑を含んで、シノブは手金庫から十五六枚の紙幤をジユンの手に握らせた。  彼は即座に立ち上つて去りかけた。 「兄さん。」  微に人間的な寂莫が、シノブの眼の奧を走つたのだ。  さすがにジユンの足が、ためらつた。 「見た?今朝の新聞?」 「見ない。」 「あたしの、次週の曲目、進軍いふのよ!」 「遁軍?」 「ええ、進軍!」 「面白さうだな。さうだ、進軍だ、人生は進軍だ。民族は地上樂土の建設のために、進軍せなければならない、邪惡な民族への進軍だ。」 「喜んで呉れる!」 「喜ぶとも!お前の懸命な進軍の姿が人々の眠つてゐるものに、大きい刺戟を與へて欲しいものだな----。」 「兄さん、唄を作らない?兄さんの。」 「己れの?----、あ、さうか、人人よめざめよ、アジヤの爲に!といふのだな?」 「えゝ、それ。」 「唄つてくれるか?」 「唄つてみる!」 「感謝!!」  彼は思はず手を差し述べた。鋼鐵の鬪士にも、感激のもろい涙が湛へられてゐる。  兄妹は確りと握手した。  Subtitle  靈奪機  Description  ハナド・アキラの實驗室。  科學の世界!人間の智的全能が描き出されている實驗室だ。アキラは今、數匹の猿に向つて、強力な震動電波を送つてゐる。檻の中をキヤーキヤーと飛び廻つてゐた猿が、次第に睡眠状態に墮ちてゆく----。  〃生きるものゝ靈を奪つて、その肉體に、異つた意志の靈を植ゑようとする怖ろしい靈奪機の實驗が始められてゐるのだ……。〃  まつたくそれは怖ろしいアキラの創案である。人間の靈を弄使する!もし此の機械が完成するものとすれば、科學の力は、一切の神祕に解決を與へるものだ。----キカイは人間の意志、行動に絶對の命令を下す。ある一人の意志は萬人を虐使する!けれどもキカイ化した人間の靈はその一人の意志のために、自由を、權利を、生活を要求するすべさへも奪はれて終ふのだ。  それは想像するだも怖ろしい忌はしい世界である。その世界には神も愛も奇蹟も否定され、勞働のみが人間に與へられなければならない惡魔の世界だ。アキラは今その世界を築かう爲に、怖ろしい靈奪機の完成に沒頭してゐるのであらうか----?  さうではない。いかなる科學の力をもつてしても、母を征服することの出來なかつたアキラの、これは決死の----復讎が選んだ最後的な發見である。亊實セキの靈は黄金と權利と義務と自我のミイラではないか。彼女に人間的な、女性的な----子に對する母性的な夫に對する妻女的な美と潤ひがあつたであらうか。  〃憎むべき靈!〃  それは人道的にも憎むべき靈であらねばならない。その憎むべき靈を、科學の尖鋭な力によつて奪取更生することは、子が母に對しての邪道な手段であると、アキラは考へなかつたのだ。むしろ正しい子としての人道的な道であると信じたのである。  睡眠状態に陷つた數匹の猿が、更に強力な炭素液を通じた紫外線の直射に、まつたく假死状態にまで墮ちて終つた。  に!とアキラの頬に凄い微笑が走つたのだ。  彼はその一匹をとり出すとグラス・ボツクスの中に、靜かに横臥させたのだ。  奇怪な風車が廻轉を始めた。風車の中心點から刺烈な躍動電波が猿の心臟に放射された。猿の胸部が異常に慄へた。  二十分が經過した。 「駄目だ!」  彼は頭を抱へてばつたりと倒れた。猿の屍は動かなかつた。  老僕は死んだものゝようなアキラを抱へて研究室に慌たゞしく運んだ。  漸て屈折べツドの上に横臥させたアキラの身體に、あらん限りの手當を始めた。  冷たい靜寂が、半刻も經過したであらう。彼はむつくりとべツドの上に起き上つた。  彼は兩腕を組んで、ぼんやりデスクの上に眼を落した。  彼は唇を噛みしめた。  〃仕亊に疑ひをはさんではいけない----。〃  二つの理性が鬪つた。しかし、結局一つの理性が彼にかう命令したのである。  べツドから立ち上つたアキラは重い石のやうな頭を抑へて、デスクの前に身を運んだ。この時劇しいべルが鳴り響いたのだ。  見ると、扉が開いて訪問者の姿が反映幕に映つてゐる。彼はその男の顏をぢつと見た。だが、その男の顏に彼の記憶が招かれなかつたのだ。  記憶のない男----。從つてこの男の目的は解らない。  〃心の轉換!〃  即座に彼の好奇心が動いた。彼は立ち上つて微妙な人間の神經に支配されながら、應答のボ夕ンを押したのだ。  間もなく----  その男は研究室に現はれた。年齡はまだ三十に足りない。  その眼は怒つたライオンの眼を思はせる。  その鼻は血肉を求める狼の鼻だ。  その唇は、吠える狂犬を思はせた。  若者は無遠慮に、づか/\とデスクの前に近寄つたのである。彼はアキラに對して目禮だけは二度繰返した。 「お掛け。」  アキラは若者に對して片方の椅子を指示した。若者は默つて指示された椅子に鋭い眼を落したゞけで、座を占めようとはしなかつた。 「君はハナド・アキラか?」  若者の眼は聲と共に光つたのである。 「左樣、僕はハナド・アキラである、君は----?」  一葉の名刺が若者の手から、デスクの上にこぼされた。それには「勞働救濟會、シラ・ソウタ」と書かれてある。  アキラはいつか無線電力輸送機の完成を妨害したストライキの煽動者を思ひ出した。 「この通り僕は君の仕亊を敵視する一人であるが……」 「何故、僕の仕亊を敵視する?君は?」 「何故?解つてゐるではないか……?」 「いや、解らない!」 「君は勞働市塲を知らないのだな?まだ、あの地下街の廣揚にどんなことが繰返されてゐるかを知らないのだな。」 「それが僕の仕亊と、何かの關係をもつてゐるといふのか。」 「もつてゐるどころではない!君の仕亊は、あの勞働市塲を創つたのだ!君の仕亊はおびたゞしい乞食をつくつたのだ!」 「…………」  アキラは沈默した。その沈默に若者の憎惡が刺されたのである。 「君がこの研究室から創り出す怖ろしいキカイは、人間の勞働を人間の生活を奪ひ去るのだ。君のキカイは勞働者の仇敵ではないか。」  若者は叫んだ。  アキラは靜かにその血叫びを撫でたのである。 「僕のキカイが人間の勞働を盜奪する?それが何故惡いのだらう。半世紀の社會を見給へ、人間はどれほど虐使されてゐたか。僕はそれを救つたのだ。人間がキカイを虐使する時代!人間の勞働が要求されない時代!僕はこの時代を、決して惡いとは思はない!」 「駄目だ!それは片面的な理論に過ぎない、それにしては、人間の生活をどうする!!勞働の賃金によつて支へていた貧しい人間の生活をどうする!?」 「しかし----」  アキラはそれを反撃した。 「人生は勞働であらうか?勞働を強ひられねば、人間は生きてゆけないといふのであらうか?人生といふものが、さうであるとすれば地上は樂土でなくて地獄だ!人間の勞働に代るキカイの發明は成程人間の勞働を盜奪した、けれ共……」 「理論は止さう!」  ソウタは永いアキラの理論上の説伏を峻拒した。 「と----僕を訪ねた目的は?」 「二つある!」 「いつて見給へ。」 「己れ達の生活のために、この研究所を叩き潰すことに同意することだ!」 「さうして?」 「ミムラ會長が握つてゐる無線電力の權利を己れ達に與へることだ!」 「二つとはそれか?」 「さうだ!」 「出來ない!」 「出來ない!?何故出來ないのだ?君は今も己れにいつたではないか人間生活の樂土を建設するためにキカイの發明を續ける!あれは皆僞言であつたのか?」 「無線電力の權利を君達の手に與へれば、人間生活の樂土が建設されるとでもいふのだね?」 「さういふ結果になるかも知れない。でなければ、君はあのキカイの發明によつて、何萬、何十萬といふ人間の勞働を----生活を奪ふことになるのだ!」 「その話はミムラ氏に對するの話ではないか、僕は社會亊業家ではない、僕は一個の科學者に過ぎないのだ。社會亊業家としてのミムラ氏はそれを考へるであらう……。」 「君は又、怖ろしいキカイの研究を始めてゐるのだらう?」 「始めてゐる。」 「どこまで續けてゆくつもりか?」 「僕には一つの目的がある、その目的の遂行される日までは、僕はこの研究所を捨てないのだ!」  アキラは強くデスクを叩いた、同時にソウタは、その叩いたデスクの上に、がちや!とポケツト用の殺人放電銃を投げつけたのだ。瞬間、アキラの頬の血がさつと蒼白く走つた。 「ハヽヽ」  ソウタは輕快に喘つたのである。 「安心したまへ、己れは君を殺さうとは言はない、しかし、君は己れ達の意志に反逆して、一部の人の利益のために此の研究所を護るといふなら、これと寸分違はないキカイが君の生命に放射されるのだ。既に君の生命の前に、此のキカイが、何千、何萬と向けられてゐることを、君のために己れは忠言してやりたい。」  かう言つてソウタは立ち上つた。彼はその電銃をズボンのかくしにさし込むと、狂つたやうにアキラの腕を握つたのだ。 「キカイのアイドルよ、では健在に……」  ソウ夕は力限りにアキラの腕を握り占めて、ふ!と消えるやうに研究室を去つた。  アキラは冷やかに後姿を見送つた。  〃十年前、屍に石を投げた勞働者----。〃  アキラの顏に凄い微笑みが湧いた。その微笑みは資本、勞働の鬪爭に投げる魔神の微笑みのやうであつた。  ソウタが去つて間もなく、老僕はタキ博士を研究室に案内して現はれた。  デスクから立ち上つてアキラはそれを迎へた。タキは冷靜に四方を見廻してから、デスクに近寄つた。 「どうです?妹さんは----?」 「痛味がすつかりなくなつたやうですが視力は、少しも。」  少しも----といふ言葉にアキラは何故か力を入れた。 「………」  タキは默つて顏を曇らせた。 「博士、」  心持ち、アキラの言葉は慄へたやうであつた。 「あの眼は治るでせうか?」  博士は苦しさうに答へた。 「奇蹟といふものゝない限り…………」 「駄目ですか?」 「駄目なやうに思ひます。もう、盡せるだけ盡したはずですから………」  アキラは力なくデスクにもたれてしまつた。たゞ一人の妹、その妹が盲目になる!しかも、それは妹を生んだ人----。母と呼ばれたものゝ手で、光りの世界から闇黒の世界へ叩き墮されるのだ。  〃何といふ哀しい戲れだ!〃  眼に見えない、大きい沈默の囁きが、ひしとアキラの胸に應へた。理性の奧でセキの顏が逆轉した。  〃誰が惡魔の使徒だ?!〃  理性は彼自身の顏を惡魔の使徒と見た。だが、次の刹那にその彼の理性は、火を吐くセキの顏を見たのである。憎惡はアキラの理性を滅茶々々に碎いた。 「ハナド----」  依然としてタキの冷靜な聲は狂へるだけ狂つてゐるアキラの胸裡に、微な現實を送つた。 「診察にまゐりませう」  アキラは懸命に亂れた神經を統一してタキを凝視めた。  タズの病室----。  おそらくアキラの研究室では最高の「美」の部屋----。この部屋は彼の娯樂室だ。見給へ。部屋にはテレビジヨンのスクリーンが備へられてゐるではないか。  窓ぎわには幾つかの草花が竝べられ、和洋とり%\の繪畫が無數に掲げられてゐる。四角な卓子。  蛇の皮で造られた安樂椅子。オレンジ色の----支那風なカーテン。スペインの古風なべツド。  そのべツドの上に、眼を病むタズの暗黒の神經が臥せられてゐるのだ。部屋は眠つてゐるやうな靜寂だ。  ガーゼに包まれた眼に對して、光りの世界を諦めてゐる彼女の心は今はもう澄み切つてゐた。  もう彼女の生には何一つ燃えるものが殘されてゐない。  諦めは燃え切つたものゝ、人生の灰だ。  タズの心境が澄むに從つて、今までの人生との約束は、希みは、その足型さへも消えて終つた。  生を否定する力もなければ、自殺をはかる希ひもない。たゞ彼女の心に不思議に響いてきたのは、老僕が隣室で朝夕に鳴らす「お祈りの」鐘の音である。  老僕には祖先の傳統と習性がまだ忘れられないのであらう。彼は子供の頃を想起して、鐘を叩き、合掌を、祖先のために、また彼自身の平和な終局の約束として、信ずるものに捧げてゐるのにちがひない。  信ずるもの----。それは眼に見えないものだ。眼に見えないものの力を信じることは、理論のない心證である。  現實に生きる人達は眼に見えぬものゝ力を否定した。眼に見えるものゝ證を求めなければ安心のできない現代人の心理は無論奇怪と奇蹟を人生の偶然で解決する。それが決して組織的に實在するものでないことを力説し、信じてゐる人々は安心立命の境地をとうてい眼に見えない神への信仰に發見することは不可能であらう。眼に見えた安心立命は生活であり、生活の眞理を人々は享樂に盛る。  享樂を保證するもの----。それは健康と物質だ!健康と物質を人間に約束するものは黄金だ。  〃人生の信仰は黄金である〃  何と恐ろしい信條だ。  しかし澄み切つたタズの心の眼に映つた老僕の祈念----。傳記として記憶するシヤカ、クリスト。  暗黒の彼女の神經に、何かしら大きいものゝ力が觸れてきた。權利と義務と法則の社會の光りをまつたく遮ぎられた彼女の見えない眼は現代人の見ることの出來ない一つの世界を忽然と見たのだ。 「それは神であつた」  タズの見えない眼に見えたあるものゝ力----。力は神であつたのだ。しかし、その神はシヤカやクリストではない。そんな偶像よりも、彼女の見た神は、絶對の嚴しいものだ。それはおそらく、一生を通じての祈念の境地にも見ることの不可能に近い姿であつた。  創造主----の嚴しい權能を知つたタズの神經が、今怖ろしい力で淨化されてゐる。憎惡、怨恨、そんなものがだん/\と彼女の理性から去つてゆくと、諦めといふ不思議な力が、その空虚を償つた。  彼女は窓を流れる樣々な光景、飛行機、電車のもたらす樣々な人間層、それらの凡ての音響が殺滅されつゝ過ぎて行く姿を、鋭い聽覺で聞くこともなく、たゞチキ!チキ!と折々に窓を過ぎて啼いてゐる小鳥の聲が、彼女の聽覺に新しい「時」を運んだ。  突然、ドアーが滑つて、副院長とアキラがこの靜寂な部屋に現はれた。 「兄さん?」  人の氣配がしたゝめか、タズは心特ち顏を擡げて、すぐ----とさう叫んだ。 「博士がお見えになつたんだよ----」  アキラはつとめて輕くそれに答へた。 「ハナドさん、お眼は?」  べツドに寄つて、副院長は輕く手を額に當てながら、默つてガーゼを解くといろんな手當を始めたのだ。眼は死滅に近い曇りを帶びてゐる。アキラはそれを見るに忍びなかつたのか、顏は反けて草花を凝視めた。  手當が終ると、副院長は輕い目禮を殘して部屋を去つた。  彼女は不思議に何一つ、眼に對しての質問をださなかつた。  副院長も又何一つ語らなかつた。  〃沈默の宣告!〃  病む者の心に、それ程怖ろしいものはない。  けれども過去幾十日、恐怖と失望に燃え盡したタズの魂は、その影をすら映さぬまでに、諦めの曇りに深められてゐた。 「兄さん」 「…………?」  アキラは默つて椅子をべツドに引寄せた。 「兄さん」  甘へるやうにもう一度彼女は言つた。 「暫くこゝにゐて下さらない?ね----?」  アキラは身をクツシヨンに埋めると腕を組んだ。 「寂しくなつたかい?」 「ええ、寂しいつてこともないけれど………かうしてゐると詰らないことなど………。」 「考へられるといふんだらう、誰だつて病んでぬる時は、そんなことを考へたがるもんだよ。」 「兄さん、この眼----ね。」 「どうした?」 「駄目でせう?」  アキラは頭を抱へて唇を噛みながら、彼女の顏を凝視めたのだ。  天使のやうにその顏は澄んでゐた。彼は涙ぐむよりほかに道はなかつた。怖ろしい彼女の宿命を、所詮はさうした結末であるにはしても、彼の言葉で宣言することは慘酷である。もしその宣言を彼女になし得るものが此の世の中にあるとすれば、それはアキラでもなく副院長でもない。  〃母だ!!〃  彼の頭に母の顏が甦つてきた怖ろしいあの夜の惡魔の顏が、憎惡の火を吐いて迫つて來た。  アキラの怖ろしい妄想が次第にその影を大きくすると、彼の仕亊に對する信念が火のやうに燃え立つた。  神を否定し、人間の智能が大地の新しい創造主であることを信じた現在のアキラには、無論、靈の創造が不可能であらうとは信じない。彼が人間の全能を自らの仕亊にかけてさう信じた。  またそれは、母の復活であり、盲目になつた妹の復活である。 「タズ、眼のことなんか案じることはないよ、兄さんの仕亊さへ完成すれば救はれるのだ。」 「え。」  その言葉はたしかに彼女の胸底を叩いたらしい。 「今に兄さんの仕亊が完成すれば、あツ!と世間の奴等が怖れるのだ。兄さんは人間の靈を奪つて、新しい靈を創造するキカイの發案に沒頭してゐる。このキカイの力で光を失つたその眼が、再び光に接することが出來たとすればお前だつて喜んで呉れるだらう!」 「兄さん!」  意外にその言葉は冷たかつた。 「兄さんは、その成功を信じてゐらつしやいます?」 「信じてゐる!信じてゐなければ、兄さんは自殺するだらう。あの母の肉體に巣くつて離れない惡魔の靈を、兄さんはキカイの力で奪ひ取るのだ!さうして母の肉體に、兄さんが創造した美しい優しい母性の靈を注ぎ込むのだ!お前にも優しい母であるやうに。」  彼はべツドの端をポン!と叩いた。その手を確り握つたのはタズである。 「兄さん!」  その聲は涙ぐんでゐた。 「そ、そんな怖ろしいことは止めて下さい! 兄さんは罰しられます!きつと罰しられます!人間の靈を人間が弄ぶなんて、赦されないことです、靈は絶對なもの!神のもの!創造主のもので御座います!!」  懸命に叫んだ。おそらくその叫びは神に近いものであつた。それはまた彼女が生涯でたゞ一度叫ばねばならない叫びであつたかも知れない。  しかし、その叫びをアキラは嗤つた。 「お前には解らない。お前はたゞ温順なしいこの部屋の主人公であればよいのだ。神だなんて、創造主だなんて、そんなものがあるものか。地上を支配するもの、世界を支配するものは人間だ。」 「兄さん、あたしは悲しい!あたしは皆に裏切られてゆく……」  神を信じ、創造主を信じた彼女の心に、それは悲しい出來ごとであつたかも知れない。 「では、永遠の盲目であつてもお前は悔いないといふのか?」 「ええ、あたし、ちつとも悔いません!」 「あの母を?」 「お母さまも赦します………。」 「何故赦す?」 「お母さまがもしほんとうの惡魔なら、お母さまは滅びます、お母さまを裁くものは絶對の權能を保つ創造主で御座います!」  彼は立上つた。さうした妹との會話が、今の彼には堪へられなかつた。 「兄さん!」  それを慌てゝとめたのがタズである。 「何處へいらつしやいます?」 「研究室だ!」 「では----やつぱり」 「さうだ、やつぱりだ!」  慌てゝ彼は部屋を去つた。彼女はべツドの上で慟哭した。  Subtitle  緑の札  Description  ハザクラ・テアトル  地上街、唯一のハザクラ・テアトル!贅澤な建物である。  夜になると「冷光燈」が太陽よりも、もつと強力な光を此の建物に浴びせかける。  建物は圓形に造られ、屋上とその前庭は飛行機で埋められてゐる。  前庭には、間々自動車も交へられてはゐるが、その數は至つて僅少である。ハザクラ・テアトルの觀客が乘り捨てた飛行機であることはいふまでもない。  ハザクラ・テアトルの外廓には廣告燈が明滅する。  テアトルの内部----  七層の螺旋形に組まれた觀客席に六部目位の觀客が散らかつてゐる。内部の中央----。大きい穴になつてゐるのが、ステージだ。  合圖のべルが鳴ると、地下からステージがキカイのカに依つて擡出する。  所作亊がステージの出擡擡下で開始され、終結するのだ。無論途中からの登揚人物は輕快なヱレべーターを利用して、その芝居をまとめる。配光は劇塲内の周圍から放射されるが、芝居といつてもハザクラ・テアトルはレビユーの進歩したものであるから、バツクの必要は皆無のやうに出來上つてゐる。  内部はいふまでもなく光の海だ。凡ゆる設備の贅美なことは、さすがに金權階級の娯樂塲であることを思はせる----。  シノブの化粧部屋----。  ウズキ・シノブの部屋は花束で埋められてゐる。  シノブは廻轉椅子に身を寄せて多くの女達に手傳はれながら、扮裝に懸命だ。  進軍の女騎士が、怖れ戰く味方の戰士を踏み越えて、敵陣深く進出するといふ----ストウリーに盛られた淒壯な舞踏である。  殊に彼女は今夜、此の舞踏中に「アジアの唄」を獨唱するといふことが、人々の足を半ば誘つた理由であらう…。  ひよつくりシノブの部屋にこの劇塲の經營者ミムラ頭取が現れた。  彼は、何よりもその花束に眼を落した。彼はその山積された花束に、彼女の素睛らしい人氣を見て滿悦した。  間もなくべルが鳴つた。彼女の出番が報じられたのだ。  觀客席----。  三層の一部。こゝは特別席だ。  劇塲關係の人々と新聞記者席である。兄のウズキ・ジユンが珍らしくこの特別席の中央に座を占めてゐた。彼はシノブといふアイドルによつて高調される「アジアの唄」のためにいつもは極端に嫌つてゐる劇塲で、極端に嫌つてゐる有閑人種と肩をならべてすわつて ゐるのだつた。  劇しいアンコールが起つた。ステージは鮮明な光線の色彩に洗はれた。  〃進軍の序曲だ!〃  シノブが舞台に現はれた。  シノブの足下には多くの戰士が伏してゐる。戰士は旗を捧げた彼女の跳躍に誘はれて、次々に起ち上る。  〃迫るやうな進軍マーチ〃  戰士の跳躍は始まつた。何といふ美と嚴と壯の舞踊であらうか。  彼等は勇ましく進軍を始めたのだ。  新しい人生への進軍を始めたのだ。  それが人々の魂に、軍神の叫聲となつて響くのではなからうか。も早人々の目は、舞踏を超えて人生の進軍をまざ/\と見せつけられてゐるやうだ。  忽ち、感傷に沈淪した若い戰士が見苦しい姿の苦悶に包まれて地に斃れた。  心痛み、魂の涸れた老兵が、續いて斃れた。老兵の死が漸く味方の意氣を沮喪した。  味方の進軍は總潰れだ。奇蹟はないか。この時、突如! 跳り起つた勇壯な女騎士は、さながらにペローネの如く味方に向つて叫聲をあびせた。  おゝ、「アジヤの唄」がシノブの唇を突いてほとばしつたのだ。人々に向つて。アジヤに向つて。アジヤ民族に向つて----。  〃進軍、進軍、進軍だ、          ヽヽヽ   自我に生きるなめざめよ味方   人生は進軍だ   進め、アジヤ〃  〃めざめよ、めざめよ、めざめね   ば征戰の旗、アジヤに迫る   民族は鬪爭だ   めざめ、アジヤ〃  〃起て、起て、起て、奮ひ起て   權富貧賤、自我も反意も   結合だ、進軍だ   まもれ、アジヤ〃  思はず人々がアンコールに湧き上つた。  進軍の舞踊が終つた。ステーヂは廻轉しながら擡下した。  特別席に座を占めてゐたジユンの雙頬には、感激の涙が光つてゐた。千萬言の美辭を弄するも、彼のアジヤの唄が、シノブの唇を通じる時ほどの深刻な効果が得られない。     ×  シノブはやがて屋上へ現はれた。突如として彼女のフアンが彼女を取りまいた。  彼女は飛行機の中に轉がりさうに滑り込んだ。彼らは懸命にそれを拒んだ。 「シノブさん、何故僕達の要求を容れて下さらないのですか? 僕達は忠實な、貴女のための騎士です、貴女のための----。」  彼等は飛行機を劇しく搖さぶつた。  その時にジユンの姿が現はれた。す早く彼等の中の一人がそれを見た。 「おい! 民族運動の先生が現はれたぞ!」  騒ぎは一瞬に沈み返つた。彼等は双手を擧げてジユンを迎へることを忘れなかつた。 「ウズキ先生! 僕等は今夜から先生の味方です、僕等はこの通り双手を擧げて、先生の民族運動に加盟します!」  彼等のリイダーがかう叫ぶと彼等は一齊にイヱス!と贊同した。 「君たちそれは本當か!」  ジユンが叫んだ。 「ほんとうですとも!ほんとうですとも!僕等はアジアの唄にまゐらされたのです!」  え?!----と驚き喜んだのはジユンではなくてシノブであつた。 「みんな、じや、もう一度あたしと一緒にアジアの唄を唄ひませう、さうして今夜は夜びて祝盃!」  シノブは彼等に命令した。 「萬歳!!」  彼等は狂氣して跳り上つた。  〃起て、起て、起て奮ひ起て   權富貪賤、自我も反意も----  アジアの唄が終つた。  忽ち彼等の姿は、十數台の飛行機内に消えた。  ホワイト・スワル3 「白い燕」がすーと舞ひ上つた。續いて一台、ニ台、三台、四台五台……。     ×  上海の酒塲。レツド・ムウーン。レツド・ムウーン!。  上海、地上街五十六番。二十五層の四角な光りの家だ。  今、その屋上に數台の飛祈機が着留した。たしかにそれはニホンの、しかも「白い燕」に先導されたハザクラ・テアトルの屋上を出發した飛行機だ、  ホール----。  〃醉どれた人生!〃  まつたく醉どれた人生の展開である。こゝでは國境が無視されてゐる。凡ゆる世界人が、何の約束もなく、禮義もなく、醉どれて、唄つて踊つてゐるのだ。  中央の卓子。そこにウズキ・シノブと彼女の一黨が「夜びて呑む」約束を果してゐる。 「おい!見ろい! ニホンのウズキ・シノブが向ふにゐる!」  突然、若いトルコ人が叫んだ。  ホールの人々の醉眼が一度に彼女の顏へ集ひ寄つた。 「おゝ!ウズキだ!」 「ニホンのウズキ・シノブだ」  同時に人々は立ち上つて彼女の名を讚唱した。  このとき餘りの騷々しい眼の光りに、チビ公は慌てゝシノブの膝から驅け降りた。 「おゝ!女王の戀人は逃げた!」  チビ公はホールを驅け出して、ヱスカレーターに飛び乘つた。  階下へ、階下へと流れて行くヱスカレータ----。  シノブは無意識に、そのあとを追つた。  夜の街路----。  レツド・ムウーンの建物から、ひらりとチビ公が飛び出した。チビ公はそのもの音に驚いて、又しても街路樹の下を南へ/\と逃げ去つた。 「覺えておいで!どうするか」  はずみに----シノブは街路樹の根につまづいてピシヤリと倒れた、首かざりの寶石が飛んだ。 「あ!」  と、刹那にシノブが叫んだ。街路樹の根に一枚の札が落されてゐる。そのカードの上に、寶石が落ちてゐるのだ。  シノブは夢中で寶石の札を取り上げた。  〃緑の札!!ニホンの緑の札!!〃  札は中央結婚承認所から交付された----5039----の記號札だ。  不思議にシノブの心が波立つた。  緑の札!。これは男の札である。樹の上の空には美しい星がダイヤモンドのやうにきらめいてゐる、彼女は空をながめた、街路樹に寄つて、大空を眺めてゐる若い空の詩人が、彼女の頭を占有した。今までに感じたこともなかつた淡い甘い虹が彼女の心臟を貫いた。 「青春!」  彼女はシツカリと緑の札を握りしめた。  中央結婚承認祈----  圓い十二層に區切られた建物、この市街では珍らしい形式の建物だ。  屋上には青い樹木が茂つてゐて、美しいといふより凡て青春を思はせる建物だ。  こゝではこの國のあらゆる人達の結婚、離婚の承認登録と裁定が遂行されてゐる。  その必要のため、こゝでは何百萬人かの人々がカードにその經歴が記録されてゐる。  人々は誰でも指定してその人に關するあらゆる知識を得ることができる。  スミダ・タケル----彼はこゝの所長である。彼は所長室にをさまつて興奮煙をくゆらしながら新聞を讀んでゐた。  間もなく訪問者が現はれた。  〃ウズキ・シノブ。〃  有名なハザクラ・テアトルのウズキ・シノブをスミダ所長が知らないといふ道理がない。彼の顏に久し振りな明るい微笑が湧いた。 「ようこそ。」  スミダ所長が歩きながら、さういつた。 「あたし、たうとうお訪ねしましたわ、可笑しい?」  立つたまゝで、心持はにかんだ樣子を見せると、すぐその心を紛らすやうにシノブは笑つた。 「どうして!可笑しいことぢやない、こゝをお訪ねになるのがほんとうです----。」 「スミダ所長!でもあたしいつか所長にいつたことを、思ひ返すと………。」 「ハヽヽ。そんなことはどうだつて構はない。一生結婚する人がないなんて----それはあの時の貴女の意地です、で、相手の人が見つかつたとでも----?」  スミダ所長は立ち停つて、腰を伸ばすとシノブを正視した。 「スミダ所長。」  彼女はバンド・サツクの中から一枚の緑の札を取り出した。 「昨夜、シヤンハイの街で拾つた緑の札、ちよいとこの人を調べて下さらない----?」 「捨つた?」 「えゝ」 「番號は?」 「五千の三十九!」 「五千の三十九號……。」  不意にまた、スミダ所長は歩き始めた。彼は歩きながら、記憶を辿つてゐるらしい。 「その札は素晴らしい札だな」 彼は不意に立止つてさういつた。 「所長、素晴らしいつて誰?」 「さ----當てゝ見る氣はありませんか。」 「だつて、たゞ素晴らしいぢや。」 「イヤ、あなたはすでに知つてゐるはず、會つてゐる人だ。」  シノブはちよつと小首を傾けたがすぐに 「判らないわ、だつて妾、印象に殘るやうな男性に會つた覺えはないんですもの----」 「ホホウこれは手きびしい----しかしこの男だけは知つてゐるはずだが。」  しかしシノブは知らぬといつた。スミダはたうとうまけていつた。 「誰でもない、このカードはハナド・アキラだ、知つてゐるでせう。」 「ハナド・アキラ?」  豫想に返してシノブの返亊は無感激だつた。 「知りませんか?」 「ヱー」 「イヤあなたは會つてるはずだ、ホテル・アジアで----あの夜祝賀會の主賓ですよ。」 「あゝさう/\妾思ひ出したわ、何だか若い人がゐましたね。」  スミダは案外なシノブの言葉、この素晴らしい人氣のハナドを知らぬ女性を、今更のやうに見まもるのだつた。  アキラの研究室----  アキラは相かはらずデスクによつて研究に耽つてゐた。  そこへ----突然ウズキ・シノブが訪れた。 「あたしウズキ・シノブ。」  アキラの前へ現はれた彼女はブツキラ棒にいつた。 「ようこそ。」  アキラの返亊もブツキラ棒だつた。  〃常にクイーンであれよ。〃  シノブはこの怪奇な部屋に入つた瞬間、こみ上げて來る不氣味さに崩れかけた態度をグツと保ちこたへた。  〃驕れる女性をこらしめよ。〃  アキラも負けるものかと思つた。二人の間には冷たい空氣か流れた。 「あたし何のためにこゝへ來たか判つて?」 「それは判らない。」 「ぢやハナドは妾を知らない?」 「少しも知らない。」 「うそ!うそ!」 「君にうそをいつたつて仕方がない、本當に知らないんだ。」 「ホ………ハナド、あなたは本當に驕兒ね、でなきや可愛い英雄主義者だわ。妾を知つてるくせに知らないなんていひたがる。」 「知らない、僕は斷然君を知らない。」 「うそ!知つてるる、九月五日の夜、アジアホテルであなたとお母さんとの間にどんなことがあつたか、妾がそれを知つてゐる以上、あなたも妾を知つてゐるんだわ。」 「ヱツ!」  ほんたうはアキラはシノブを知つてゐた。が彼の女性に對する反感は、彼女の存在を無視させやうとした。が、あの夜のこと、誰にも知られたくないあの夜の自分と母の姿を知つてゐるといはれた瞬間、彼の氣力は一度に崩れた。  彼はあの夜の出來亊を思ふと同時に、その夜、その翌日、どんなに世間の眼をごまかすために犠牲を拂つたかを考へた。それはどこまでも世間に發表されてはならない出來亊であつた。  彼はそつと唇を噛んだ。 「あなた、とても損なひとね、知つているくせに知らないなんていひたがる………。」 「…………」 「英雄主義つて、そんなもの?ね----?ハナド。」 「あの夜のことは思ひ出したくない!あれは哀しき祝宴です。」 「それで知らないつて、なんかおつしやつた?」 「さうです!」 「可愛い英雄!あたしはハナドならきつと好きになれる!」  シノブはかういつて急に瞳を輝かせた。彼女は、彼の前に緑の札をぽんと投げた。 「あたしの御用件?、たゞこれだけ。」 「札----?」  アキラは不審な心で、その札を取り上げた。 「これは僕の札だ!」 「えゝ、あなたの札よ。」 「どうしてこの札を?」 「拾つたのよ上海で。」 「君が?」 「え、あたし!」 「それで屆けてくれたんですか?」 「御親切に----ね。」 「ありがと。」  彼はその札を暫く眺めてゐたがそのまゝ卓子の上においた。 「それで君の御用件はすんだんでせう----ぢや、さようなら。」 「ハナド」  シノブはヂツとアキラを見つめた。 「それがあなたのレデーに對する禮儀なの?」 「失禮なといふんですか。しかし僕は、きみが考へてゐるやうな感情からは、とつくの昔に離れてゐる、そんなことはどうであつてもよいことです、僕は一筋の道を急ぐ旅人、道以外の凡ゆる感情には超えてゐるはずだと、御承知下さい----。」 「へ! 大變な王樣!」  わざ----とはずんだ調子でシノブは仰山にいつてみせた。そのおどけた輕い言葉の裡には、無論彼への嘲笑に近い叛意があつた。 「ハナド、そんなこといつてゝも、女は魔法使だつてこと解らない? すぐ虜にされるつてこと、考へない----?」 「ハヽヽ、不合理な! そんなことはこの僕には無いはずです。」 「でも、虜にされたら?」 「僕は自殺する!」 「ほんたう?!」 「ほんたうです!」 「約束する?」 「するとも! それほどの女性が現はれたとするなら!」 「現はれてるぢやないの? ハナド----?」 「それは?」 「あたし! ウズキ・シノブ!」 「…………」  アキラの胸の奧に、憎惡の炎がめら/\と燃え立つた。何のこだはりもなく人生に君臨し、男性に君臨する踊子が、彼の神經をかきむしらずにはおかなかつた。 「ウズキ!」  彼の唇がぴり! と慄へた。 「きみがこのハナド・アキラを虜にするのだつて?!」 「えゝ! してみせる!」  平氣で、微笑さへ含んでシノブは答へた。 「駄目だ!」  彼は鼻で喘つた。 「大丈夫よ! 見てゝ御覽なさい。ハナドはきつとあたしが好きになれる!」 「そんなことは考へられない」 「えゝ、考へられなくつたつて結構よ! あたし、ちやんと勝算をもつてゐる! あたしは----おそらく日本一の魔法使だもの!」 「僕は科學者だ! 僕こそ、きみのさうした誇りの生熊を奪つてみせる!」 「その前に、あたしのこの唇があなたを奴隷にしてみせるのよ」 「お歸り!」  アキラは不意に立ち上つた。彼の瞳は獸のやうに光つてゐた。 「お歸りなさい!」  彼はもう一度、シノブに向つて命令した。 「歸れつて、ハナドはあたしに命令するの?」 「…………」 「命令なら、あたしは歸らない、殺されたつて歸らない!」 「命令ではありません!」t 「嘆願? 正直にいつたらどう?嘆願でせう? ね----?ハナド」 「僕はきみのやうに、言葉にとゞめを刺す人は嫌ひだ!」 「ありがと。でも、あたしはハナドが大好きになつてるのよ、あたしを嫌惡する人なんて、日本中に、もしかすると世界中に、ハナド一人であるかも知れない! ハナドは、なんて、英雄だらう!」  新しい金口を取り出してシノブは歸りさうにもなかつた。  アキラはヂツとシノブとにらみ合つて立つてゐた。  二人とも無言だつた。  突然そこへ、ヒ力ルが現はれた。  ヒカルは卓子の上のカードを見て愕然となつた。 「このカードは?」  アキラは默つて横を向いた。  ヒカルはカードを手に取り上げて、改めてシノブを見つめた。 「御心配は御無用、あたしハナドに結婚を申込みに來たんぢやないのよ」  シノブのこの言葉はヒカルの取り亂した態度に對する皮肉のつもりだつた。 「あら、妾のおたづねしたのは、このカードの出どころなんですわ、まあ御見當ちがひをなさらないやうに、ホ……」  ヒカルも負けてはゐなかつた。 「上海、南京路のあるところですわ」 「ヱツ!上海?」  それは餘りに豫期しないことだつた、アキラもシノブもヒカルのあまりの驚きかたに却つて吃驚してしまつた。  ヒカルは蒼青になつて、アキラの顏を見つめた。 「ハナド、あなたそして何もかも聞いて?」  アキラは瞬間ヒカルに祕密のあることを悟つた。 「スツカリ!」 「まあ!」  ヒカルはその部屋を驅け出さうとした、アキラがしつかりとその手を捕つた。 「ヒカル、このカードは何の必要で君の手にあつたのだ、君は僕の機械の祕密を盜みに來たのだ、ハインリツヒ教授の僞手紙を持つて來て僕を騙したのだ、君はスバイだ」  咄嗟電銃がヒカルの手に光つた。しかしそれは直ぐアキラの手に取り上げられた、アキラは電銃をヒカルの胸に擬した。  恐しい沈默が三人を支配した。  しばらく………  ヒカルの口からヒステリカルな笑聲が漏れた。 「ホ…………」  彼女は狂氣したやうに笑つた、呆氣に取られてシノブはこの異常な塲面に息をはずませてゐた。 「ハナド、あなた妾がうてる。妾を殺すことができる? 妾が殺せる?」  ヒカルはヂツと眼をアキラの顏に近づけた。 「あなたに妾を殺す勇氣があつて?」  アキラはヂツと眼を伏せた、電銃を握つている手をパラリと下げた。  ハツ! となつたのはシノブだつた。 「ハナド、あなたは妾に何もかも許してゐたんぢやないの、今度の新しい發明も、そしてあなたの……」  といひかけて彼女はシノブを見て次の言葉をためらつた。 「機械の祕密はまだ許してゐない」  かすかにアキラはいつた。 「さうよ、あれだけはまだね。けれど、あれはもう澤山よ、妾、他のひとから教はるばかりよ」 「他の人?」 「ホ……、ミムラ頭取よ、あの人も貴方のやうに、スツカリ妾に許してしまつたのよ」 「ミムラ?」  アキラは凄い眼をしてヒカルにつめよつた、だが直ぐにぬれたやうに光つてゐるヒカルの眼に射すくめられてしまった。 「あなた妾をスパイつていつたのね、ヱヽさうよ、妾はある國のスパイなの、そしてスツカリ目的通り、あなたの大切な祕密を知つてしまつたのよ」 「スパイ!」  叫んだのはアキラではなかつた、シノブだつた。  シノブは咄嗟に落ちた電氣短銃を拾つてヒカルをうつた。  シノブはヒカルを撃つた、兄ジユンの祖國を思ふ血は妹にも流れてゐたのだつた。  しかしたまは外れた。  二度目に銃を擬したとき 「待つて!」  ヒカルが叫んだ、シノブは思はずためらつた。 「侍つて!話がある、」  ヒカルは急にしく/\泣き始めた、呆氣に取られて二人は顏を見合せた。 「ハナド」  しばらくしてヒカルがいつた。 「妾、ハナドを敵として戰はねばならないなんて、何て不幸なんでせう、……妾はスツカリあの無線電力輸送機の祕密を盜んでしまひました、妾はそれを妾の本國へ知らせねばなりません、ハナド、妾は日本人ぢやないんです、日本人を母に持つ外國人なのです」  アキラは意外に思つた、シノブも不思議さうにヒカルの泣きぢやくる肩を眺めた。 「けれども、けれども、妾はためらつてゐるのです、知らせやうか知らせまいかそれをためらつてゐるのです……だつて妾はハナドを敵にする勇氣がない」  ヒカルはこゝまでいふと聲を出して泣き崩れた。 「そんなことをいつてこの塲を逃れやうたつて駄目だ、お前は目的のためには手段を選ばない女だ、現代の女だ」  アキラは弱る心を押へて叫んだ。 「さうです、さうです、目的のために、妾は、タキ博士にも、ミムう頭取にも、妾の最後のものを贈りました、そしてハナドに近づき機械の祕密に近づいたのです、だが、その目的を達しておきながら急に妾は悲しくなつたのです、妾はハナドに負かされたのです、ハナドの純情に負けたのです」  靜かにシノブが立ち上つた。アキラはそれを默つて見てゐた。  目禮してシノブが立去りかけた。 「待つて、シノブ待つて!」  ヒカルがまた叫んだ。 「歸つてはいけません、歸らないで下さい」  シノブはまた引かへした。 「聞いて下さい、妾のざんげを聞いて下さい、……妾は現代の女性に戀愛はないといふことを、少しも疑はないで今日まで生きてゐました、しかし、今日となつて、何故妾がためらふかといふことを考へたときその解決はハナドに對する戀だつたのです」 「戀!」  シノブの口からそんな言葉がかすかに漏れた。  アキラにも絶えて久しく聞いたことのない、イヤ恐らく始めて聞いた言葉だつた。 「さうです、戀です、妾はハナドに戀をしてゐたのです、そして戀をしてゐながら、それを自覺しないで、第二、第三の人に近づいてゐたのです、……妾は駄目です、妾はハナドに戀をする資格はなかつたのです」 「ヒカル!」  アキラが叫んだ。 「そんな話はもう止さう、……それできみは祕密を本國へ知らせたのか」 「まだ、こゝに!」  彼女は胸を指さした。 「そして、君の本國といふのは!」 「妾の本國……それは……」  ヒカルが次の言葉をいはうとした時だつた。 「アツ!」  と叫んで彼女は倒れた、胸のあたりを鮮血に染めて----  「アツ!」  と叫んで鮮血に染んだヒカル----二人は思はず驅け寄つた。  只一發、ヒカルの胸には無聲ピストルの彈丸が深く食ひ込んでゐた。  ヒカルは再び動かず、涙にぬれた眼を美しく閉ぢたまゝで死んだ。 「誰だツ!」  夢中に叫んだアキラの頭をかすめて第二彈が飛んだ。 「危い!」  シノブが思はずアキラをかばつて立つた。 「シノブ!」  アキラはシノブを抱いた、お互がお互の身體をかばひ合つて起つた。  二分!三分! 彈丸はそれ切りつゞかなかつた。  どこから撃つたのか、誰が撃つたのか、判らなかつた。  しかしそれはスパイの裏切りを制裁するための彈丸にちがひなかつた。  無氣味な沈默が二人の間につゞいた。 「氣の毒なヒカル。」  しばらくしてシノブはヒカルの死體に近づいて、胸の鮮血を拭ひ始めた。  いまのさつきまで快活そのものだつた美しい若い女性の魂は、もうこの世のものではなかつた。  幾度か危ない境地に活躍したであらうヒカルは遂に味方の彈丸で斃された。 「あら、こゝにもう一つ古傷があるわ」  ヒカルの胸に古い傷跡が殘つてゐた。 「いつかタキがいつてゐた上海の女スパイといふのもヒカルだつたんだ。」  アキラはひとりごとのやうにいつた。 「ありがたう、すみません、ヒカルもキツと喜んでゐるでせう。」 「科學者らしくもない、いやにセンチメンタルね。」  シノブはアキラの言葉にこたへたが、その言葉もにやに淋しかつた。  そのときあはたゞしいべルが鳴りひゞいた。 「誰か來たやうだ。」  アキラはシノブと共にヒカルの死體を、別の部屋へ運んで行つた。 「妾、とんだところへ來合せてしまつたわ、でもおかげで、ハナドとは、大變親しくしたやうな氣持ちがするわ。」 「本當に、僕もさつき、あなたと喧嘩したことなんか忘れてしまつたやうだ。」 「ぢや用心なさいね、今度は妾の囚子にならなにやうに!」 「まだとりこにする勇氣がありますか。」  ヒカルの亊を何んとも思はずにといふ意味だつた。 「そんなこと平氣よ」  シノブは朗らかに答へた。 「けれど、妾にはヒカルのやうな目的はないんですからね。」  さういつて笑つた。 「妾、失禮しようかしら!」 「ぢやあ、さようなら。」 「あら、まだ失禮するとはいつてないわ。」 「ぢやあ、いらつしやい。」  このとき老僕が來訪者の名剌を持つて來た、シラ・ソウタだつた。 「會はないといつて返したまへ。」  アキラがさういつたとき、 「イヤ、ぜひ會ひたい。」  といふ聲がした、シラ・ソウタがもうそこに入つて來てゐた。  二人はにらみ合つて、デスクに 差向つた。 「御用件は?」 「いつか、約束したことを僕は果したいと思ふのだ」 「約束----?君と? ハテ何だつたかな」  不意に卓子を叩いてソウタは立ち上つた。彼の唇は火を吐くほどに鋭かつた。 「おい!!ハナド、勞働市塲は失業者の海嘯だ!その海嘯がどこにぶつかつてゆくか----考へて見ろ!」 「フヽヽ。それがこのハナドと君達との交渉だといふのかね。」 「當り前ぢやないか!だから僕は約束を果したいと思つたのだ。」 「約束なんて----まだ僕には呑み込めない、一體、何を果したいといふのだ?」 「なに?----ハヽ、別にいふほどのものではないが……。」  急にソウタは投げやりな口調でポケツトの中から電銃と紙片をつかみ出すと、それをぽん!とデスクの上に叩き投げた。 「電銃か、署名か、この二つの中から、君の意思に叶つた奴を一つ選べばそれで足りるのだ、ごてごてとした理窟はいらない。」  アキラは急に態度をくづした。彼は兩腕を組んでニツと嗤つた。 「無線電力の權利を讓れといふのだな?」 「いふまでもない、勞働市塲の海嘯を支へる----それが唯一の抵抗だ!」 「僕が斷然拒絶したら?」 「これだ!」  ソウタの電銃を握つた手が伸びた。アキラは紙片を握つて立ち上つた。 「署名は斷然、幾十萬勞働者の健全なる生活のために拒絶する!!」  握られてゐた紙片がパツとソウタの前に投げ返された。懸命な眼の奧でお互が嗤つた。  一秒、二秒、三秒……。ソウタの血に滲んだ手が、電銃へと伸びて行つた。  危險はアキラに冠せられた。  ----この時。突如! いまゝで餘りの怖ろしい光景に暫くはたじろいてゐたシノブ----「死」の爭鬪に、彼女の心の暴君が跳ね上つた。  ソウタの手が電銃の寸間に迫つた刹那である。 「あ!」  ソウタの異常な愕きの叫びを包んで、す早く伸びたシノブの手が、怖ろしい電銃を窓の外に投げつけた。パツとグラスの裂ける音が室内の空氣を割つた。  劇しい爭鬪がはじまつた。  椅子が十字に飛んだ。  ソウタを中心に、アキラとシノブの懸命な防戰が、刻々劇しい度を増した。  アキラの額から血潮が流れた。  シノブの右手首からも、血が袖の白布に染んだ。  ソウタは狂つた獸よりも、もつと險わしく暴れ始めた。見る/\うちに室内は白兵戰のような凄壯さに變つた。  シノブはもう夢中であつた。生きてゐるのか、死んでゐるのか、それさへも----もう彼女には解らなかつた。たゞ、燃燒した鬪爭心が燃え盡きるまで、そうして、凡てのものが虚無の一如に突き進むまで彼女はあばれてゐたかつた、三人は毬のやうにころげまはつたちり%\に離れて、こわれた器物のかけらが、室内を飛んだ。  更に、更に爭鬪が劇しくなつた。亂れに亂れた三人の姿は、犬のやうに吠え合つた。  突如!ドアーが開いた。  五六人の人影が亂れて飛び込んだ。アキラが無意識に押したボタンによつて驅け着けた警察員の人人である。  ソウタは漸く室外にほうり出された。どや/\とその人達は室内を去つた。  〃突如!、墓穴のような----死面のような靜寂が室内を閉ぢ込めた。〃  それは極度は戰慄の靜寂だ!  動く力もなく、二人は顏を見合せた。アキラにはもう言葉がなかつたのだ。 「ハナド!」  苦しい叫びの下で、シノブはばつたり倒れて終つた。疲勞とと安心が彼女を失神させた。  アキラの眼はくらむようには!とした。彼はよろめく足どりで、亡靈のように歩み寄つた。 「シノブ!」  アキラはシノブを抱き占めた。彼女に對する今迄の惑情が、秋の雲のように遠くへ、遠くへと走つた。 「シノブ!」  彼は叫ばずにをられなかつた。  女神のように美しい、誇らかなシノブの失神した頬に、アキラの燃え立つた涙が、ポロ! ポロ!と落ちた。  〃あゝそれはおそらくは生涯にただ一度の、女性への甘い切ない涙でもあらう----。〃  アキラの瞳は、次第に情熱に高まつた。涙の顏は滑るように接近した。 「シノブ!」  瞬間----。  アキラの唇は、血の氣を失くしたシノブの唇に強く落ちた。  接唇の雨は漸く沈靜した。 「ハナド。」  やつとシノブの意識は甦つた。アキラは、は!とした。 「赦して下さい! 僕は、僕は、僕は……。」  アキラの言葉はうまく唇を滑べらなかつた。彼にはどうしても、今の接唇が話せなかつた。  ぢ----とアキラを見上げてゐたシノブの眼頭にも、美しいものが光つた。 「ハナド」 「……?」 「大丈夫?」 「無亊です----」 「安心したわ」  二人の瞳は合致した。永い沈默が續いた。アキラの眼に再び熱い血が甦つた。 「シノブ!」  堪らなく彼は、シノブを感情のまゝに抱き占めた。 「ハナド。」  二人の顏は接近した。 「あの時の僕の言葉を忘れて下さいますか」 「あたしはハナドを愛してる。」 「あの時から----?」 「あの時から!」 「さうして今も?」 「……ハナド」  彼女の唇は情熱的に波立つた。  Subtitle  死の舞  Description  タズの病室。タズはべツドに横はつたまゝ手を胸に當て、深い瞑想に墜ちてゐる。彼女のかうした姿は、なか/\にくずれない。  彼女は祈つてゐるのだ。暗黒のどん底で創造主の全能を信ずる彼女の見えない眼に映つた人生の姿が、何といふ怖ろしい獸であつたらう……。  子を愛することを忘れた母。靈を奪つて母を征服せんとする子----。その醜い爭鬪が、はつきりタズの心に甦つてくると、彼女は裁かれる日の怖ろしさに戰いた。創造主の全能を否定した愛なき人人の上に、その日の迫つてゐることは、彼女の信仰を更に深める恐怖であつた。  アキラが入つて來た。死んだやうになつてゐるタズの姿を見て彼は、はツ!とした。 「タズ、お前、どうした?」 「…………」 「夢でもみてた?」 「兄さん----」  蛇のようにタズの兩手は、アキラの胸にからみついた。 「あたし兄さんに、一生のお願ひがあるの、聽いて下さる?」 「あ、あ、聽いて上げるとも!どんなことだ?」  今までに一度も味はつたことのない----いぢらしさ----といふものが、アキラの胸に浸み込んだ。急に妹が哀れに見えた。 「あたしお母さまに逢ひたい----」 「え?」  アキラは心の轉落するのを身に覺えた。思はず彼は唇を噛んで、ぢツと彼女を睨めた。 「お前、何んてことを、いひ出すのだ?」  彼の言葉は鋭かつた。 「いふまでもない、母と子だ!兄さんだつて、お母さまの心さへめざめて下されば、どんなに嬉しいか解らない。だが、あのお母さまは、子供の幸福を考へる前に、亊業を考へる----愛するよりも征服することが、お母さまには大切なことだ! そんなお母さまに會つて、お前、何を話さうと思ふのだ? 第一、お前がかうして哀れな姿になつてゐることをよく御存知のくせに、一度だつて見舞つて呉れたことのないお母さまに」  タズがその言葉を押へた。 「兄さん、あたし、きつとお母さまをまごゝろで動かせてみるわ、あたしのまごゝろがお母さまに通じさへすれば、お母さまはきつとめざめて下さるでせう、兄さんだつてお母さまが今迄のことをお詑びして下さるなら、怖ろしいキカイを完成しようなんて、なさらないでせう……?ね、兄さん?あたし懸命にお祈りするわ」 「タズ。」  それつきりでアキラは默つて終つた。涙に潤んだ瞳の奧で、彼のかたい神經が砂のやうに崩れてゆくのが映つてゐた。  ×、セキの居室----。  何一つ、女性らしい裝飾のない部屋だ。黒黄色の卓子。黒黄色の廻轉椅子。猫の眼のやうに光つてゐる大金庫。金庫の片側には標語が貼つてある。   ISHI WA KOTETSU   DE ARE!!  意志は鋼鐵であれ! この部屋には相應はしい標語に違ひない。セキはゆつたりと椅子にかけ 「青春の水」を飮み、興春煙をうまさうにふかした。  間もなく----。  七人の下僕が今日、一日の新聞紙を持つて部屋に現はれた。 「お讀み!」  瞳さへも動かさずに彼女は命じた。  彼等はかうして今月一日の出來亊を、讀み始めるのだ。 「………」  三人目の下僕が新聞を讀み始めた時である。一人の老いた下僕が慌たゞしく室内に驅け込んできた。 「旦那さま、お珍らしい御訪問者で御座います、」  老人は首を縮めて最敬禮を捧げながら報告した。 「誰だね!!」 「お喜び遊ばしませ!お坊ちやまとお孃ちやまで御座います」 「……………」  たしかにそれは意外なことであるに違ひなかつた。けれ共、彼女の双頬に血の騒ぎは見えなかつた。 「新聞を讀み終るまでは、二人をこゝに通してはなりません!」  やがて兄妹は母の前に通された。  アキラはなるだけ快活に、青年らしい明るさで、母の子であらうとする無邪氣さで、言葉を包んだ。 「お母さま、暫らくでした」 「ほんとうに暫らくだつたね」  しかし、かういつたセキの顏には微笑一つ浮かばなかつた。 「お母さま!」  にわかに、なつかしさ、戀しさが胸一杯にこみ上げたのか、タズは不自由な眼を忘れて二三歩前によろめき出た。 「お母さま!あたしは………あたしはお母さまに……………」 「タズ、お前まだお母さまを忘れずにゐたのだねえ----?」 「え!」  彼女はなつかしさ、戀しさの感情が一度に失亡するのを覺えた。 「あたしは、もうお前達とは母でもなければ子でもないのだと思つてゐた、現在もそんな氣持ちでゐるのだが……お前達はまだやつぱりあたしを母だと思つてゐるのかしらね……」  それは皮肉といふよりも怖ろしい冷酷なセキの宣言であつた。 「お母さま!それは何といふことをおつしやるのです!人の子の母として貴母は僕達にそれ乏平氣なお心でおつしやるのですか?」  鋭くアキラは詰め寄つた。自殺した父の血が、は!と心臟に應へたのをアキラは知つた。 「ええ!いひますとも!」  セキは微動だもしなかつた。 「さうぢやないの?アキラ、アキラといつて惡ければアキラさん。お前がこのあたしを母だと思ふなら何故無線電力の權利をあたしに下さらないのです?!」 「では母と子の結びが、物質的なものだとでもおつしやられるのですか----?」 「無論、母と子は利害の共有者でなかつたかしら?」 「と、----あの死んだ父は?」 「父?」 「自殺したお父さまのことです----」 「お父さまがどうなつたといふの?」 「もう貴母はお父さまが何故自殺したかをお忘れになつたのですか?!」 「……………」 「お母さま!お願ひです!どうかたゞ一言、惡るかつた----とあのお父さまにお詑びして下さい!貴母さへお詑びして下さるなら、僕はお母さまのためにはどんなことでも、否!誓つて奴隸になりたいと思つてゐるのです!お願ひです、どうか僕の願ひを容れて下さい!」 「お默り!」  セキの感情は破裂した。二人は又激しい口論をくりかへし始めた。タズはおろおろと聲を呑んで涙を双頬に傳はせたまゝ、餘りの切情に身を慄はせた。  セキはつと立ち上つた。慌てゝアキラは彼女の前に詰め寄つた。 「お母さま!どうなさるのです?」 「眠くなりました、もうお話なんか、こり/\です----。」 「………?」  不意にアキラは飛び上つた。 「お母さま!」  彼は刹那に鋭くタズの姿を突き指した。 「あれを、あれを見てやつて下さい!」 「それも----このあたしの罪だといふのだらう?」 「さうです!貴母です!お母さまです!」 「馬鹿な!それはお前の罪じやないか?!」 「え?!」 「あの夜のことは、皆なお前の罪です!お前さへ權利を下されば何もあんな騒動がなかつたはずぢやありませんか?!」 「お母さま!」  暗黒の瞳を通して、タズの心に映つた二人の姿は獸よりも、もつと酷い惡靈の姿であつた。彼女はもう此の現實に生きることが堪らなかつた。 「お母さま!」  思はず探り寄つて、タズは確かりとセキの身に縋り着いた。 「赦して!お母さま、赦して!みんな、みんなあたし達が惡いのです。どんなことがあつても子が母を裁くなんてことは、赦されないことですもの!兄さん!詑びて下さい。あなたも、あなたもお母さまに詑びて…………。」  しかし、怒り狂つてゐるセキの神經は、彼女の言葉で沈靜するほどの柔かなものではなかつた。 「お前、お母さま----て誰にいつてゐるのです!?そんな約束を誰がしたのです!?仇敵!仇敵!お前達は仇敵のはしくれです!!この手をこの手をお離し!」  セキは力限りにすがりつく彼女を突き離して投げ飛ばした。はずみを食つて、毬のようにタズは一間ものめりながら轉倒した。 「な、な、んといふことをするのです?!」  瞬間、アキラの雙手はわな/\と慄へた。その眼は獅子のように 狂ひ燃えてた。     ×  二人は歸つて來た。靜かに二人は對座した。 「タズ、お前の見たお母さんはどうだつた。兄さんだつてお母さまを憎みたくはないのだ。子として母に仕へたい心が今でも一杯に心の裡で溢れてゐる……。けれどもあのお母さまの魂に、惡魔の宿つてゐる以上、兄さんは一日も早く、その惡魔をお母さまの魂から奪ひ取らねばならない責任を感じる!タズ、兄さんは今にきつと、優しいお母さまさ創造するぞ!」  しかしタズは悲しさうに答へた。「兄さんはどうしてそんな間違つたことをお考へなさいます?人間の靈は絶對に神さまのものです。その靈を弄ばうとするものは神樣に罰せられます。兄さんは、人間が生れ、人間が生き、人間が死ぬ----といふ、この絶對の現實を、みんな人間の意志だと斷言なさいますか?それを證し得る程のものが、發見されてゐるとでもおつしやいますか?それは人間の意志では動かすことの出來ない----大きい力の支配であることを、誰が否めませうかしら、力!眼に見えぬ力!靈の創造者!それは神さまで御座います----。」 「お前、どうしてそんな言葉を繰返すのだ?お前の言葉は、いつでも兄さんと創造主を對立させる、しかし、一體創造主とは何であらうか?神といふ言葉は、もうあまりにこれ迄の人類生活に俗化されたアイドルではないか。兄さんは神祕より眞理を尊ぶ。科學だ。科學の力でやさしい母を作るのだ」 「あ………」  タズは悲しい運命に泣くよりほかはなかつた。  アキラの實驗室----。  奇怪な三つのキカイが廻轉するにつれてグラス・ボツクスに縛られた猿の心臟部へ強力な波動光線が放射された。アキラは懸命にグラス・ボツクスを睨んでゐる。室内は異樣な化學光線と樣々なキカイの廻轉に、めまぐるしいまでの騒々しさだ。グラス・ボツクスの中では、まつたく猿の靈が、不思議なキカイの力によつて奪取された。それは屍に等しい姿であつた。  アキラの研究は早くから、靈を奪取することに異常な成功を示したのだ。だが----靈を奪取した肉體に、再び新しい靈を宿す「生靈創造」の研究は、幾十度の失敗を重ねて、今もそれを操返してゐるといふ----至難な、殆ど不可能的な仕亊である。  けれ共、科學者特有の「自己信念の盲從」に、アキラはまだ「生靈創造」の可能を信じて疑はなかつた。失敗がその度數を重ねると、彼は更に明日といふものゝ光りに、今日の苦惱と失意を約束した。  母に對する憎惡が、一日から一日と深く鋭く、掘られゝば堀られるほど、彼はキカイに對して深い大きい魅力を感じた。  猿の姿が屍のやうになると、アキラは凡ゆるキカイの廻轉を靜止した。  間もなく----。グラス・ボツクスの中の猿は、大きい風車のやうなものゝ中心棒の上に引出された。  風車がゆつたりと廻轉をはじめた----と。  五十萬キロワツトと、六萬五千アンペアの發電機が活動を始めた。二筋の光線が、左右から猿の頭部中央に注射した。  凡ゆるキカイの廻轉がはじまつた。風車の廻轉が、次第に速度を高めると、二筋の光線は三筋となり、四筋となり、速度に比例して數を増した。  なんといふ奇怪な「生靈創造」の怖ろしい光景であらう………。  アキラの形相はさながらの惡鬼である。血走つた兩眼は鋭く輝き、双手は飢ゑた獸のやうに戰いた。  タズの居室----。  べツドの上に、タズはしよんぼりと坐つてゐる。彼女の身と魂は降り積る昏迷のために、見る影もなくやつれてゐた。彼女には凡ての人間が獸よりも、もつと醜い姿で噛み合つてゐるやうに思はれた。  だが、その獸である母、その兄を憎むことは出來なかつた。ただ、創造主の權能を奪つて、靈に對する鋭いメスを握り構へたアキラの姿が、少しの濁りもないタズの心の眼に怖ろしいとげとなつて映つてゐた。  考へると、彼女の胸底は眞黒な怪しい雲に包まれて、きら!と一筋の「生」に對する疑ひが走つた。  生きてゐることに疑ひをもつたほど、人生に怖ろしい亊はない。  不意に彼女の心の暴風は鎭靜した。  ----人生から獨立する!  それは所詮訂正することの赦されない人生に、獸として生きることの出來ない人間が選む唯一絶對の逃れ道であつた。忽然と彼女の心頭には澄み切つた----憎惡、叛逆、鬪爭の醜惡な慾望から離脱した限りない「靜」の淨土が燃え上つた。  おゝ!北方處女星座の光り輝く方へ!  彼女の心は晴れ%\と大虚のやうに無限な世界へと伸び展がつた。その顏には何んといふ清らかな微笑が浮かび上つたことであらう。  彼女はべツドの上に立ち上つて四方の樣子を手探りはじめた。  人生への夜明けの道か?死の舞か----。彼女は生の最後に展げた一つの道を發見した。  風車と室内のキカイが、廻轉をぬまぐるしいまでに速めると、數十の光線が猿の頭に集中した。 ----と。 「兄さん!」  思ひがけないタズの聲だ!。ぎよツとしてアキラはその聲を探つた。 「兄さん!」  その眼を抑へるやうに、同じ言葉がS・S・震動電氣放射機の片側から聞えた。 「あ!危い!」  瞬間、アキラは叫ばずにをられなかつた。今、その放射機からは怖ろしい強力な殺人光線が、一つのキカイに向つて放射されてゐるのだ。 「タ、タズ!前に進んではいけない!そのキカイからは怖ろしい光線が放射されてゐるのだ!一歩も動いてはいけない!」  續けて、アキラは懸命に怒鳴つた。タズはにつこりと笑つた。笑つたタズの足が一歩前に進められた。 「バ、バカ!!」  アキラの聲は空を叩いた。にはかにタズの微笑を含んでゐた顏が嚴しく冷たく光つた。 「兄さん!」  今までに、おそらくは一度も聽いたことのないほどな人間の聲を、アキラはその刹那に聽いたのだ。 「……?!」  アキラの唇は開かなかつた。彼の眼は異樣にひとゝころへ注いだ。  タズはびり!と身を慄はせた。 「記憶して下さい!兄さん!靈を支配するものゝ力は獸の力ではありません!神!創造主!!!」  叫んだと思つた瞬間に、タズの肢體は五六歩前にのめつて、弓なりにばつたりと倒れた。強力な殺人光線を浴びて、彼女の冷たい、聖らかな双頬と唇と瞳は忽ち眞黒な「死の面」に變じた。 「……」  アキラは失神した眼でその光景を見た。死の跫音が、彼の耳をかすめて走つた。  暗黒の數分間が過ぎた。  キカイは一度に停止した。 「あ!」  彼の瞳は更に新しい世界を發見したのだ。今まで屍のやうになつてゐた猿の眼がぱつちりと輝いて四方をぢろ!と眺めてゐるではないか!。  彼は悲慘な數分間前の光景を忘れてしまつた。 「お!お!己れは靈を創造したのだ!!!」  彼はつか/\と猿の側に近寄つた。猿は驚いて中心棒の上から飛び降りた。  猿はきよとん!と彼の顏を見上げて異樣に泣いた。  アキラはまゝたきもせず猿の動作に見入つた。  〃猿ではない!猿ではない!人間だ!人間の生靈だ!!〃  不意に彼の手は猿の頭に飛びついた。驚いて、猿は彼の手の中から逃げた。  その動作は、まるで人間の動作ではないか----。  猿を追うて、アキラは實驗室を駈けずり廻つた。  彼は漸く捕へた猿を抱へて泳ぐやうに室内から消えた。  ×、アキラの研究室----。  猿を抱へて、アキラは研究室に駈け込んだ。彼は何よりも永い十年間、默して呼ばなかつた父に向つて、この偉大な仕亊の完成の證しを見せたかつたのだ。 「お父さま!」  アキラは掲げられた冩眞の前で力限りに叫んだ。 「み、見て下さい!見て下さい!僕は、僕は今こそ、貴父の子であつた!と叫びます、お父さま!」  アキラは感情の溢れるまゝとめどなき涙を双頬に光らした。  〃涙!涙!全神經の歡喜に搾られて流れ出る涙!涙は喜びの極みにのみ美しく光る!!〃  抑へても、抑へても、湧き上る歡喜のために、彼は心の置塲をもて餘した。  たゞ確かりと、力の限りアキラは創造の靈に再生した猿を抱き占めて、亡き人の前に「聽えざる叫び」を續けたのだ。 「お父さま!」  彼は又叫んだ。 「お別れして十年!僕はその永い十年の間を、どんなに苦しみ、どんなに哀しんだことでありませう!」  アキラは、はじめて瞑想した。さまざまな記憶が紫電のやうに「心の奧」から閃めき出た。 「お父さま!」  走る記憶に誘はれて、アキラはいつた。 「十年前の九月五日!あの夜からの出來亊は、まだはつきりと僕の胸に生きてゐます。貴父の屍に石を投げた彼等!貴父の死を歎くこともなく嘲笑した母!さうしてそれからの憎惡と哀恨!叛逆!あゝ永い十年の間を、僕はまつたく獸のやうに生きました!しかし、僕はその永い獸の十年を、あくまでも忠實な貴父の子として生きぬいたことを、今になつて喜びます!僕の生命!僕の意志!僕の使命!それは凡て貴父のものであつたからです!」  アキラの激した感情の言葉が盡きなかつた。さながらにそれは、生ける父に對して誇る子の歡喜の姿であつた。  〃血にまみれた父の遺書が、子に約束したもろ/\の信念!〃  その信念が脈々と生きる彼の意志を通じて、ほとばしり出た。  アキラはいつまでも、父に向つて叫んでゐたい切情に驅られ盡されると、逆冩鏡のやうに、ぽつかりタズの姿が彼の腦裡に映つた。 「タズ………」  今までの感情が妙にぼかされた何かでがん!と毆られたやうな痛味を神經に感じた。彼は空氣のぬけたゴム毬のやうな足どりで、一歩、二歩、實驗室へと吸ひ寄せられた。  實驗室----。  靜の極致!それは又、動の極致のやうな實驗室である。凡てのキカイが、動いてゐるやうで動いてはゐない。  アキラは巨大な震動電氣放射機の前に屍となつて臥つてゐるタズの姿に、どう歩み寄つたのか、彼自身の意識では、それを的確に讀むことが出來なかつた。  彼は腕組んだまゝ、タズの顏がぼーつと見えなくなるまで凝視めてゐた。言葉はもう燃え切つた感情を滑つて、咽喉から上には出なかつた。  ふ----とタズの「死の手」にかたく握られてゐた紙片が、アキラの眼に映つた。彼は無意識にその紙片を取つた。  紙片には、盲目の彼女が亂雜に書きなぐつた配置のない文字が散らかつてゐた。  "NINGEN WA KEMONO NI  NARIMASHITA.  KAMISAMA NINGEN O  SABAITE KUDASAI." (人間は獸になりました、神さま人間を裁いて下さい)  アキラは三度、四度、それを繰り返し繰り返した。 「バ、バカ!!」  最後に彼はかう吐くやうに叫んだ。  Subtitle  鬪爭  Description  太平洋上----。  渺々千里、海また海の太平洋上。大空は眞黒な雲に包まれて、突風は海上を噛み讀けた。  大自然の淒壯な叫び!。  さながらにそれは天魔の怒り狂ふ姿を思はせる。  ----と。  不意に人間の巨大なキカイが現はれた。キカイは雲と浪の自然と自然との鬪爭のすきを巧に潛つて東へ、東へと飛行した。  〃サクラ號!〃  キカイは太平洋航空會社の旅客機だ。  危く征服されんとした雲と浪は猛然としてその勢力を人間のキカイに集中した。  サクラ號の機能はやがて、その進退の自由さへも失して來た。波と雲は更に鋭くサクラ號に追ひ迫つたのだ。  しかしサクラ號は飽くまでもこの自然の追迫と戰つた。  刹那、今までにない淒壯な大龍卷が海上に卷き起つた。サクラ號はうまくその龍卷から逃れた。----が【、】  突然!。サクラ號は火を噴きはじめた。サクラ號の機關庫が爆破したのだ!。  中央天侯調節所----。巨大な、異樣なキカイの前で、人々は盛んに活動をはじめてゐる。  室内の通報機幕には各所からの通報が點滅する。人々はキカイと通報機を睨めて活動を續けてゐるのだ。  不意に一人の男が、あ!と叫んで通報機幕を指した。 「見ろ!サクラ號は危險だ!」  人々は通報機幕を見た。赤色の最危險と、その位置を示す文字が火華のやうに人々の眼を射た。 「太平洋航路の三十二度七分の地點だな!」 「怖ろしい暴風雨だ!」  太平洋上に死哭する三百の生命のために、中央天候調節所は人もキカイも總動員をは心めたのだ。  航空會社々長室----。  けたゝましい旅客機からの受聲廣大機のべルが鳴つた。航空課長が飛び込んで來た。旅客係長が、慌てゝその後に續いて驅け込んだ。 「サクラ號の機關庫が爆破致しました、これが最後の通信でございます……」 「……?」 「……?」  言葉もなくセキは身を慄はせてデスクを叩いた。次に起る恐ろしい問題が、三百の生命の爆破である!。 「航空課長!一體、誰がこの責任を負ふのです!?」  太平洋上----。  太い火柱が空間に立つた。サクラ號は眞一文字に墜落した。  ミムラ頭取の寢室----。  〃眞夜中〃  寢室とは思へない程の宏壯な部屋である。光りが殺されてゐるために室内は仄暗く、多分は贅美を極めてゐるのであらう……  一筋、高い窓から月光が射し込んでゐる。その光りは恰度、室の中央、べツドの上に落ちて横臥してゐるミムラ頭取の上半身を映してゐる。  不意に室内の靜寂は破られた。仄暗い闇を割く足音が、高い窓の一部から、すす----と滑り込んでゐるのが、その靜寂に山彦した。 「誰れだ!?」  何といふミムラ頭取の鋭敏な神經であらうか----。彼はもう、そのどよめきを知つてゐたのだ。 「靜になさい!」  突如!黒い魔者のやうな影が、鋭いミムラ頭取の言葉に應へた。 「……!?」  がば!とミムラ頭取は跳ね上つた。その手には、無論精鋭な電銃が握られてゐた。  疾風のやうに、影は何の怖れもなく彼のべツドに駈け寄つた。 「ミムラ頭取!電銃をお離しなさい!それと同じものが私の手にもあるのです」  ミムラ頭取は答へなかつた。  影は一歩、彼に迫つた。 「今夜は貴方が柔順に私の命令に服從して下さい、それが貴方の御利益です!」 「な、なにを命令するといふのか」 「無線電力輸送會社の機關室とキカイの設計圖を私に與へて下さればよいのです!」 「き、君は外國人だな!?しかもアジヤ人ではあるまい!?」  殆ど血叫びに等しい聲でミムラ頭取は叫んだ。 「さうです!そのために私は貴方に命令するのです!もし貴方が一週間内に私の命令に從はない時は貴方の生命と共にあの無線電力會社は爆破されるまでのことです!!お忘れのないやうに、では、さようなら……」  再び、疾風のやうな影の姿は、怒りと恐怖に怯えてゐるミムラ頭取を室内に殘して、仄暗い闇を割きながら消え去つた。 「う!汝!」  やつと激情を抑へることの出來たミムラ頭取は、兩手を握りしめて闇を撲つた。 「な、なにが爆破だ!己れはこの全世界に命令するものゝ一人ではないか!己れに命令するものは赦せない!!」  彼は更に、闇を撲つて怒號した。  北極の平原、一面霧のやうな雪につゝまれた大雪原、大空には幕のやうなオーロラが映じてゐる。  油を流したやうな氷原の靜けさ!どこにも動的なキカイ的な影が含まれてはゐない、朗らかな天地だ。  その眞白な銀世界に二點黒い影、それは「白い燕」を飛ばしてここまで遊びに來たアキラとシノブだつた。  二人はさつきから一つの雪塊に腰かけてこの物靜かな誰ひとり邪魔するものゝない世界で、長い間語り合つてゐた。  こんなことも語りあつた。 「實際、今までの僕には、人生の美がわからなかつたかも知れません、それ程に僕の心はキカイの研究に涸らされてゐたのです、しかし、貴女を知つてから、なぜかしら僕は、人生から美といふものを發見したのです」 「ま!奇蹟だわ!ハナドのやうな方が、そんなことを發見するなんて----ほんとに奇蹟だわ!」  またこんな話もあつた。 「あなた、兄さんの絶叫してゐる民族愛だなんて、アジアを護れだなんて----野性の人間の言葉と思はない?」 「今までは、やはり僕もさう思つてゐた、が、ぼんやりと----それがほんとうであるやうな氣がするのです、人間はやつぱり、大きい愛に生きなければ、眞の平和が得られないやうな考へが、僕の心にも臺頭してゐます……」 「なら、ハナド、あなた何故お母さまを赦して上げない?」 「母!!」  ギク!とアキラの瞳が鋭く大空に飛んだ。  それからひとしきり二人の間にセキのことが話題に上つた。といふよりも議論された。勢ひアキラの靈奪機のことに及んだ、アキラはあくまでも母のために靈奪機の完成を誓つた。  シノブは、痛ましいタズが死をかけてまでもやめさせようとしたその恐ろしい發明を、良いものとは思はなかつた。  アキラはタズに説いたと同じやうにシノブにも靈の創造が可能であることを説き、シノブはシノブでタズと同じやうに、それも神の冒涜にかぞへた。  果しもない議論にいらだつたアキラは、遂にその議論に止めをさした。 「シノブ。論より證據です。僕はすでにその發明に成功してゐるのです。」 「ヱツ!」  さすがにシノブも、それが完成してゐると聞いては驚かざるを得なかつた。  彼女の驚きは、今まで極力アキラの仕亊を諌止しようとした努力をスツカリ忘れさせた。  シノブはアキラのこの歴史的な發明に對して、世界で最初の崇拜者に一變してしまはねばならなかつた。 「ハナド、それ本當ですか。」 「ハナド、そんなことがほんとうに成功したと考へてもよいことかしら?」 「よいことです! 僕は貴女がとても考へることさへしなかつたほどの、怖ろしい仕亊を完成してゐるではありませんか、つまり、この獸のやうな人生を訂正することに成功しようとしてゐるのです!」 「あたし達の人生を訂正する!ハナド、あなた、そんなことを眞面目に考へてる?」 「考へています! さうして可能を信じてゐます! それは穢れ切つた吾々の靈を奪取することによつて、僕は科學の力を信じるのです! 信じて下さい! 人間は餘りに醜い獸の世界です、吾々は獸であつてはいけない! それを考へると僕は母に感じると同じ憎惡を、この人生に感ぜずにはをられません!」 「でも、その可能を信じてよい何かの證しが……」 「あります! あります! 僕は完全にその證しを、----猿の生靈を奪取して、新しい生靈を創造することに成功したのです!」 「ほんと!?」  シノブは飛び上つて、アキラの肩を何度となく叩いた。アキラは苦笑しながらもそれを甘受した。 「しかし、貴女はそれを喜んでくれますか?」 「………」  默つて彼女は微笑した。 「だが----」  勢ひ込んでこゝまで語つて來たアキラは、何か思ひ出して急にしよげ返つた。 「どうしたの?」  シノブが心配して聞いた。 「僕は成功した。しかしそれは猿の靈ではありませんか、僕は人間の靈に成切しなくてはならないのです!」 「ぢや、ハナド、あなた、それを早くなさいましよ」 「やりたいのです! だが----」  かういつて、アキラは妙に唇を舐めずつた。 「だが----? 何かそのことについてハナドを苦しめるやうなことがある?」 「無い筈のものが、あるやうになつてきたのです!」 「へん----ね?」 「まつたく! へんといふよりも慮外です! あの妹が自殺するなんて、僕にはどう考へても慮外なことです、僕はあれ程、言葉を分解して説明した靈奪機の原理を怖れ疑つて自殺を決行した妹の心がむしろ愚かしいものだといひたいのです、思ふと腹が立ちます!あの妹さへ生きてゐてくれたら、既に僕の仕亊は完成したといひ切ることが出來ませう! シノブさん、僕にはそれが殘念でなりません。」  心持ち----アキラの唇は慄へた。シノブの險わしさは次第に、彼への慰めに滑つた。 「ハナド」  極めて、彼女のその言葉は優しかつた。 「どうして、あの妹さんがあなたの仕亊にとつて、それ程大切な方だつたのかしら、ね?」 「妹の肉體は僕の仕亊の驗しであつたからです!」  アキラは苦がく唇をゆがめた。  極北の空に又白鳥が群れた。 「驗しつて----?」  シノブは不審さうに美しい眼頭を寄せて反問した。 「不思議なことではない!妹の肉體は實驗室での猿と同じ運命にあつた妹だつたのです!」  アキラの瞳は次第に、キカイのやうな冷たさに光つた。  默つたまゝで、シノブは黄金色の光を増す氷原の大空に、輕い吐息を投げつけた。 「シノブ----」  アキラは、さうした彼女の姿から冷たい自分の語調を發見して愕いた。彼は默つてシノブを見ることが出來なかつたのだ。 「妹一人が僕の仕亊の相手ではありません!今にその相手を探し出して見せます----。」  不自然な快活さで、アキラは不意にこぼれた心の感傷をぬり潰して微笑んだ。 「ハナド!」  シノブは狂人のやうにアキラの胸へどしん!と顏を投げ寄せると、その不自然な微笑を叩きつけるほどの眼で、キラ!と彼を見上げたのだ。 「ハナド、御安心なさい!あなたの猿に、このあたしはなつて上げませう!」  あけびの實のやうな唇から、意外な言葉が奔り出た。 「え!?」  アキラの瞳からは火華のやうなものが散つたかと思はれた。 「シノブ!そ、それは、ほんとうですか!?」 「ええ、ほんと!ほんとの決心!」  シノブの顏は燃えてゐた。 「と----いつてシノブ、僕のキカイは貴女の生靈を奪つて、新しい貴女を創造するのです!貴女はそれを怖れないとおつしやるのですか!?」 「怖れないわ!ハナド。」 「だが、創造された貴女は、唄ふことが出來ない!踊ることが出來ない!----かも知れません。」 「唄へなくつても、踊れなくつても、あたしさへ、ハナドの好きな女に創られるとしたら----さうしてハナドに一生愛して頂けるものだとしたら----」 「………」  アキラの沈默に涙が浸んだ。 「か、感謝します……。」  彼はそれぎりで、顏を伏せた。  ある時はキカイのやうに、ある時は詩人のやうに、アキラの神經は轉變した。彼は大河のやうに、せゝらぎのやうに人生を流れる若者であつたのだ。 「ハナド。」  感激に慄えてゐるアキラの胸に顏を寄せて、シノブは囁いた。 「あなた、一體あたしをどんな女に創つてみたい?きつと----煙草の嫌ひな、お酒の嫌ひな----男を玩具にして喜ばない----ひとにする?」 「します!」  不意に感激からぬけて、アキラはかうきつぱりと答へた。 「つゝましい、優しい、お上手に嘘がいへない、男を尊重する、神さまのやうな、奴隸のやうな----女に、あたしを創つて見たいのでせう?」 「そんな皮肉はいはないで下さい!」  アキラはかツとして、シノブを睨めた。 「僕は女を奴隸にすることは嫌ひです!女ははじめから、人生の奴隷ではなかつたはずです、たゞ女には人の子の母として、男の妻として、どこまでも愛と美に生きねばならない唯一絶對の道があります、あのオーロラのやうに!」  彼は堪らなくオーロラの空の下で確りとシノブを抱きしめた。  ×、航空會社社長室----。  苦がり切つた顏で、セキはトヤマと話してゐる。彼等はサクラ號の爆破に伴ふ損失と、亡くした三百の乘客の生命に對する責任報償の謀議をこらしてゐるのだ。  と、セキは何か酷い權幕でトヤマの言葉に食つてかゝつた。 「死んだ者は死んだ者!一人前の生命が二萬圓だなんて、そんな要求に、どうして應じられるものですか!」 「ところが遺族達の要求は五萬圓ですぞ」  苦がりきつたまゝで、案外トヤマは慌てなかつた。狐のやうな眼をきよろ/\動かせて、セキの顏を冷やかに眺めてゐた。 「ね、トヤマ、あなたは結局いくらの金を出せばよいのだと思つていらつしやいます?!」 「さ……やつぱり今もいふ通り二萬圓の金を出さなくつちや----」 「----と、六百萬圓! ば、ばかな!! そんな金が出せるもんですか! あなたまでが、このあたしを舐めてゐるのです!」 「しかし、ハナドさん----」  苦笑した眼が鋭く光つた。 「わたしが貴女を舐めてゐるのではなくて、實は永い間、わたしが貴女に舐められてゐたのです、今日はどうでもその決算をして下さい----」  セキの顏は滅茶々々に青い神經の筋を走らせた。 「なにを決算せよと----おつしやいます」 「二年前からの百萬圓に對する元利金の決濟です!」 「あの金----?」  それで、セキはがつくりと腹底の力を潰してしまつた。  トヤマは更に突込んだ。 「わたしは經營會社の社長ではない! 一使用人に過ぎないものです、そのわたしが全く個人の意思で貴女の要求に應じた金ではありませんか? れたしはもう寸刻もお待ちすることが出來ない! 貴女がわたしのこの要求に應じて下さらないといふなら、あの時の約束を實行するまでです!」 「あの時の約束と----おつしやいますのは?」 「旅客機全部の競賣です!」 「旅客機! あれはあたしの心臟ではありませんか!?」 「無理にとは申しません、金さへ今すぐに拂つて下されば、わたしはやつぱり貴女の味方です」  不愉快な、不自然な沈默が續いた。動力を失つたキカイのやうな沈默だ。  この時、殆どその奇形な沈默とは無關心な熊度で飛び込んで來たのは支配人であつた。 「社長! 大變でございます、遺族の人達は社長に會はせろ! と押よせてゐます」  あわてた支配人をグツとセキがにらんだ。 「お死に!!ほんとうに、あの人達に敗かされるやうなら、死んでお終ひ!!」  セキの命令はどこまでも冷たく嚴しかつた。 「自決致します……」  支配人は、まるで死刑囚のやうに室内から去つた。 「ハナドさん、ところで。」  トヤマは、目の奧で嗤つた。 「かふいふ大切な機會に貴女の味方に此の力強いわたしを加へる意思はありませんかな?」  かういつてトヤマは興春煙のパイプを咥へた 「トヤマ!あなたはほんとうにあたしの味方になつて下さる方でせうか?」 「妙なことをおつしやいますね?トヤマ・ハジメは貴女の味方になる資格は、たしかにあるものだとは信じてをりますが……」 「ぢや、トヤマ、あなたはこの航空會社の支配人になつては下さらない?」 「地下街經營會社でのわたしの責任を濟ませて下されば----。」 「トヤマ!あたしは犧牲を拂つてあなたの責任を濟まします!」  決然とセキは立ち上つて大きい金庫の扉に手をかけた。  やがて----。  アジア銀行宛の小切手がセキの手からトヤマの手に渡された。  〃\1200000.00〃  小切手には、おびたゞしい數字が記刻されてゐた。元利合計の決濟數字だ。  トヤマはその小切手を握つてゆつたりと椅子から身を起した。 「ハナドさん、どうも有難う、これでわたしの地位も安全です!」 「え!?」  セキは怖ろしい權幕で飛び上つた。 「安全だつて?誰がです?」 「わたし、トヤマ・ハジメの地下街經營會社での地位が安全だと申し上げてゐるのです。」  トヤマは椅子から離れると又しても興春煙のパイプを咥へて、ゆつたりと煙を吐いた。 「あなたは----あなたはあたしを騙したんですね。」 「騙した?ハヽヽ、そんな意味になりますかな?しかし、騙したのが貴女で、騙されなかつたのが、わたしといふことになりますが…。」  奮然と、セキの暴君的な冷めたい、鋭い、自我の神經が今までの後退を馳け飛ばした。----彼女はあくまでも男性の領域に進出し、その領城に君臨せなければ承知しない----醜い彼女の野望の本能が露出したのだ。 「トヤマ!覺えてゝ下さい!今にこのハナド・セキはあなたの地下街經營會社を買收して見せます。その時には、トヤマ、あたしは存分に----支配人としてのあなたにお禮の言葉を述べませう!」  いひ終へて、彼女はまた、奧齒をキリと噛みしめた。 「成程----」  トヤマの鼻の先が微妙に動いた。 「地上の支配者であるといふ女王!貴女がもしわたしの地下街經營會社を買收するやうな日が巡り來るものだとすれば、トヤマ・ハジメは天を仰いで自殺します。」 「自殺する?トヤマ!その言葉を忘れないで!」 「貴女こそお忘れのないように!そして、見苦しい自殺はなさらないように……」  セキの手は瞬間、卓子の上に載せられてゐたグラス・カツプをトヤマの胸に投げつけた。  カツプはトヤマの胸でパツト割れた。  トヤマの姿が消えた瞬間、淒じい勢ひで五六人の男が、室内に驅け込んだ。  五六人の男の眼が一樣に血走つてゐた。彼等は無言のまゝで、ぢつとセキを睨み續けた。 「誰れです、お前達は?」  彼女は卓子を叩きつけて、さながら奴隷に對するやうな態度と言葉で投げ返した。「誰に許されて入つて來たのです。」 「社長! 私達は誰に許された者でもありません! 私達は貴女に殺された者の命令に從つたまでゝあります。」 「お默り!お前達は何といふ無禮な、愚かな者でせうか! サクラ號の爆破は人間の意思によつて遂行されたものでゝもあるかのようにが鳴り立つて血迷つてゐる!お前達は、あたしに面談を強要するなんて----そしてあたしの感情を惡くするなんて、とんでもない損失です!」 「社長!」  彼等の眼は更に----あるものゝ迫る野獸的な力にふるへた。 「貴女は人間の生命が、金錢の量によつて代償されるものだとおつしやいますか!?」 「そんな舊い言葉を使はないで下さい! お前達があたしに面談を強要する當の的は、そのしかつめらしい言葉の奧にわだかまる金錢の量ではありませんか?」 「一應は金錢の量をも要求はします! けれども私達はそれによつて慰められるものでも、死の償ひを受けるものでもありません!社長!私達が父母や妻子や兄弟の死によつてかきむしられた心の損害は何によつて償はれるものでせうか?考へて見て下さい。私達の生きてゐることは金錢ばかりのものではありません!感情に生きる人間です!」 「それが、どうしてお前達の利益になる言葉であらうか----?」 「社長!、貴方はまだ死といふものと、利益といふものを結び合はさうとおつしやいますか。」 「いひますとも!」  狂つた神經の力を搾つて、セキは劇しく卓子を叩いた。  彼等の眼は一樣にめら/\とした炎に燃えた。  彼等は獸のやうに怒つた。 「航空會社の責任者は誰れだ?」 「誰れでもない、あたしです!あたしで解らなければ、ハナド・セキです!」 「サクラ號爆破の、責任者は誰だ!!」 「やつぱり、あたしだと答へませう!!」 「あの支配人は?」 「あたしの代理人です!代理人で、お前達は濟ませないとでもいふのですか!」 「當然な筋道ではないか!、己達が死によつて失つた心の損害は責任者であるといふ----君の心からの謝罪によつて償はれるのだ!君の謝罪を要求するのだ!!」  彼等は一度に卓子を叩いて彼女に迫つた。 「ぶ、無禮な!」  鋭いキカイの性能のやうに、セキは卓子を叩き返した。 「地下街の蟲のやうなお前達に太平洋航空會社の社長ハナド・セキが謝罪出來るものか、出來ないものか----よく考へて見なさい!」 「き、君は何んだ」 「あたしは地上の支配者です!」 「糞!」  彼等の眼は、ぢり!ぢり!と彼女の眼に迫つた。彼等の巨手は毒蛇のやうに擡頭した。 「ハナド・セキ!己達に五萬圓宛の償金を與へろ!!」 「ひゝゝ----」  奇妙な、蹴り出すやうな聲でセキは嗤つた。嗤つたきりで、彼女は椅子に身を沈めた。 「お前達に五萬圓宛も差し上げる金があるなら、うんと立派な旅客機を慥へて、賃金の割引を始めませうよ……。」  無理にも戰慄する胸の血を抑へて、セキは興春煙のパイプを咥へた。  ----と。  刹那に彼等の巨手が虚空を毆つてテーブルに落ちた。 「覺えてゐろ! 地上の奴隷がどんなことを反禮するか! き、君のその鼻柱が、どんな風にへし曲げられるか! こ、この腕だ!この腕が----奴隷の腕が、地上を叩きつける時が來たのだ!」 「糞! 惡魔! 妖婦! 地上の怖ろしい魔術師! その心臟は己れ達の血を吸つた惡鬼の唇だ!」  彼等は卓子に落ちた----戰き慄えてゐる巨手を、中空にまで引き伸ばしてカツ!と跳らせた。 「お前達!」  セキは再び立ち上つた。彼等が何かを怒號するその機先を、彼女はす早く制して終つたのだ。 「理窟やおどかしは止して下さい! そんなことよりも、お前達のほんとうの要求高が、どれ程のものか、その本音を吐く方が、ずつと、ずつと、お前達には利益ですよ!」 「な、なにが利益だ!」  一人の男は、又しても卓子を叩いて、彼女の言葉を噛み潰すやうに怒鳴つた。 「おい!」  と、他の一人が、その男を制した。彼の頬骨には、ゆがんだ苦笑の波が打つた。 「社長! 女社長!」  ぴり! と唇がねぢれた。 「私達は、貴女のやうな魔術師ではないのです、私達の本音は幾度繰り返しても變るものではありません! 私は失はれた三百の生命を代表して、貴女に五萬圓宛の償金を要求します!」  重つたるい皮肉ではあつたが、彼には他の男のやうな粗野が見えなかつた。 「それがお前達の一歩も讓らない本音だといふなら、あたしの本音も吐きませう!----あたしは、否! あたしの太平洋航空會社はお前達遺族に對して二萬圓以上の償金は絶對に支拂ふことは出來ません!」 「………?」  皮肉な男が、瞬間卓子の上に跳り上らうとして、背後の男にグツとその首筋を捕へられた。 「き、きさまは何んて馬鹿だ!お、己れ達には、もう要求はなかつたはずぢやないか! 己れ達三百の意志は、此の汚れた大地を叩きつけるのだ!」  背後の男の巨手は、皮肉な男をずる/\と引き寄せた。 「さうだ! 己れ達は此の大地を叩きつけて終ふのだ!」 「大地を!」 「汚れた大地を!」  彼等は同じやうに咆え立てた。  咆え立てながら、彼等の足は室内の空氣を蹴つて暴風のやうに去つた。  もの淒い空虚が室内を訪れた。  彼女はぐつたりとチヱアーに沈み込むと、眼を瞑つて吐息した。  〃それから幾時間が經過したことであらうか----。〃  セキにはまつたく解らなかつた。  彼女は夢中で、滅茶々々で、ひた押しに迫つて來る空虚の涙に押し潰されてゐたのだ。  窓外には、劇しい人造の雨が降りしきつて、それが、からりと晴れて、太陽の脚光が心持ち傾斜した時である。 「社長!」  血潮を失つた灰のやうな航空部長が、その不思議な室内の惡夢を二つに破つた。 「…………?!」  セキは始めて、空虚から跳ね上つたのだ。 「大變です! 狂亂した彼奴等三百人の爲に、支配人は自殺し、旅容機と格納庫は燒き拂はれてしまひました!!」  いひ終へて、彼はその塲にぶつ倒れた。 「あ!!」  さすがのセキも悲鳴を擧げた。一度に彼女の世界は暗黒の奈落へと蹴落されてしまつたのだ。 「あ、あたしの亊業は破滅した!あ、あたしの……」  彼女は立ち上つて二三歩動いた時である。 「社長! 責任を果します!」  いひざま、彼は手にした電銃の引金とゝもに、生命の決算を濟ませたのだ。  電銃は彼の心臟を滅茶々々に潰して生命の最後の燃燒が灰と化した。 「あ!」  彼女は走馬燈のやうな悲慘亊の展開に、唖然として身を伏せた。  〃見よ! 眼に見えぬ巨大なものゝ力は動いたのだ! 邪惡は遂に裁かれたのだ!!〃  歩む力も失せた彼女は、ぢり!ぢり! と彼の前に這ひ寄つた。  彼女は懸命の力で、彼の手に握られたまゝの電銃をもぎ取ると、慄へる手で銃口を心臟へと運んだ。  自殺!。  けれども、その刹那に、彼女の頭を走つたものは、今迄に一度も見たことのない自殺した夫の顏、自殺した子供の顏、さうしてアキラの復讎に燃えてゐる眼であつた。 「貴郎! 貴郎!」  彼女は電銃をかなぐり捨てゝ、その幻影を追つた。 「タズ! タズ!」 「おゝ、アキラ!」 「あたしを----、お母さまを赦して下さい……。」  彼女の眼に涙が光つた。とめどなくその涙が頬を傳つた。  〃涙! 涙! 人間の涙!!〃  それは何といふ奇蹟であらうか。  キカイであつた彼女の眼から、おそらくは永遠に涙の失はれた彼女の眼から----さんさんと湧き上る涙!。涙は眞珠のやうに美しかつた。  〃それは愛の涙! 情と美の女人の涙! おゝ、それは母の涙だ!!〃  彼女は初めて自分の姿をはつきりと眺めた。 「みんな、みんなあたしの罪でございました! 赦して下さいまし貴郎!」  夫の幻、タズの幻、アキラの眼----。それらが現出するたびにセキは這ひ上つて嘆き哀しんだ。  抱きしめても、抱きしめても、彼女の抱きしめた幻は消えた。 「タズ! タズ! お母さまです。お母さまです!お母さまを赦してお呉れ……。」  夫の幻、アキラの幻影、----その幻影が命令した。  〃行け……詫びよ、子の前に!汝は人の世の母であれよ!〃 「さうだ! あたしは行かう、心から悔い詑びるの道へ……、あたしはあの子、アキラの母であつた………」  決然とセキの眼が輝いた。それは裁かれた者の、罪に服從する新しい從順な眼であつた。その眼は念然と重い/\空虚な汚れた血潮の渦卷きから、奇蹟のやうに明けて行く人生の夜明けを見た。涙を浮べて微笑する大空よ、大地よ。  〃夜明けの人生!!〃  はつきりとその人生が、セキの眼を綴つて展開した。  Subtitle  夜明けの人生  Description  アジヤ銀行頭取室。  そこでミムラ頭取はウズキ・ジユンと對立してゐる。 「お約束の日で御座います、運動資金の寄附金を受取りに參りました、お支拂を願ひます。」 「ウズキ、わしは今日、そんなことを考へたくはないのだ。」 「考へたくはない?どうしてゞす!?」 「實は無線電力輸送會社の機關室とキカイの設計圖を、外國のスパイ達がねらつてゐるのだ!此のわしの生命も同時にねらはれてゐる。」 「頭取をおどかしてゐるのですね。もしその設計圖を渡さなければ殺して終ふとまで----?」 「だが、わしはおどかされてはゐない。 約束の昨日、わしはきつぱり拒絶した!それはわしの利益のために!日本國家の名譽のために!」  刹那にジユンはデスクを叩いて叫んだ。 「頭取、今こそ貴方はあの電力會社を彼等、勞働者の前に開放すべきです!上下一致、吾等にすきがあつては敗亡です!貴方の利益を日本國家のために開放して下さい!それはまたアジヤのためにも!」  しかしミムラ頭取は怒鳴つたのだ。 「利益の相反した彼等----勞働者に、わしはあの電力會社を開放することは出來ない!わしはわしの力でスパイ達に勝つてみせる!」 「こんな塲合にでも、貴方はまだ自分の利益といふことを考へようとなさるのですか。」  ジユンが一歩進んだ刹那である。「アツ!」と叫んでミムラは轉倒した。思ひがけぬ出來亊にジユンは思はずミムラ頭取を確りと巨手の中に抱きしめた。 「ミムラ頭取、確り、確りなさい!」  その懸命な叫び聲に、ミムラ頭取はハツとして、滑り込まうとする「生」の意識を、現實にまで取り戻した。 「おゝ!ウズキ!」  頭取は、しびれる唇を噛みしめて血糊に詰まつた喉の奧から、かきむしるやうに言葉を吐き出した。 「は、早く、ハナドにこのことを知らしてくれ。わ、わしはたうとう外國のスパイの毒手に殺られて終つたのだ!危い危い!あの無線電カ會社が危い!」 「み、皆で、皆の力で、あの無線電力會社を、日本を、アジヤを外國のスパイの毒手から奪ひ護つて呉れ!!」  あゝ、巨大な生産界のスフヰンクスも、また裁かれるものゝ一人であつた。生靈の前には、亊業も冨も權勢もなかつた、たゞあるものは「護國」そのものであつた。  アキラの實驗室----。 「ぢや、ハナド」  と、快活に氣輕く、シノブはグラス・ボツクスに身を沈めた。 「…………」  アキラは默つてうなづいた。彼は雀のやうにキカイからキカイヘ飛び廻つた。  シノブの血が騷いだ。彼女は懸命に慄へる心を抑へて眼を瞑つた。彼女は堪らなく別れなければならない現在の生靈が、いとほしく、切なかつた。  ----と。  彼女の凡ゆる感情を毆り飛ばすやうに、怖ろしいキカイの廻轉が一つ、二つ、三つ、と急速度にその數を増した。  〃おゝ!人間が神----創造主に叛逆する靈の裁きが始められたのだ----。〃  漸て。  怖ろしいキカイの性能は、シノブの生靈を、その肉體から奪取した。彼女は屍のやうに、グラス・ボツクスの中に埋もれた。彼は屍のやうになつたシノブの生靈のない肉體を今度は、大きいグラス・ケースの中へと運んだ。まつたく「死相」に變じた彼女の顏には、一抹の「生氣」さへも動かなかつた。間もなく----。グラス・ケースに異なつた數條の光りを吐いた。  光りと光りが交錯し廻轉した。  刻、一刻と「時」は流れた。  キカイは無茶苦茶に光線を吐き出した。  戀人の生命をかけて、アキラは今その審判の庭に起つたのだ。  時が流れた。  信念に燃えてゐた彼の眼が、次第に不安な戰慄へと墜ちた。  時刻----は過ぎた。  まだ、グラス・ケースの中には何んの變化も見えない。アキラは怖ろしい焦躁を感じた。     ×  再び刻は----過ぎた。  けれどもグラス・ケースの中にはまだ何んの變化も起らない。  アキラの心は堪らなかつた。彼はもう亂れる心をどうすることも出來なかつた。 「だ、駄目だ…………。」  彼は頭を抱へて、ばつたりと倒れた。深い/\底の知れない昏迷の闇から、紫電のやうにアキラの頭に閃いたのは(創造主!神の世界!)と叫んでゐる妹、タズの姿である。 「あゝ!己れは裁かれてゐる!己れは眼に見えぬ大きいものゝ力を見せられてゐる!」  彼は狂人のやうにグラス・ケースの中から、シノブを抱き上げて實驗室から驅け出した。  アキラの研究室----。  アキラはシノブを抱きしめたまゝ、實驗室から飛び出して來ると、彼女の屍を大きいデスクの上に横臥させて、暫らくは無言のまゝ、その屍の顏を凝視めてゐた。  奇怪な幻影が彼の瞳を亂した。(叛逆者!)  アキラの耳は、怖ろしいものゝ 罵聲を聞いた。 「お!己れは罰しられた!お、己れは愛人を殺した!」  アキラの眼に、ふ----と自殺した父の冩眞が映つた。彼はぴつたりと身動きもせずに、暫くはその冩眞に見入つてゐた。  涙が、ポトリ!と不意にアキラの眼頭からこぼれた。 「お!父よ!ぼ、ぼ、僕の科學は所詮、人生の玩具に過ぎなかつたのです!」  刹那に彼は惡魔のやうな母の顏を胸に擬した。  〃敗滅せよ!科學の世界!所詮、人生は獸の世界だ!!〃  ----と、刹那。 「お、お待ち!」  彼の怖ろしい右手は、確かりと握りしめられた。 「…………」  彼は默つて、その腕を見た、その額を見た。  その額を、涙に濡れたその言葉を、アキラはぼんやりと見、ぼんやりと聽いた。  〃母に似た人----。〃 「ア、アキラさん………」  噛み占めていたセキの唇が慄へながら苦しく溶けた。 「なんにもいはないで----赦してお呉れ………初めて、初めて妾の惡夢が醒めました……なんにもいはないで。妾がわるかつたのです。」  全身の涙を搾るやうに、戻に彼女は劇しく身を慄はせた。 「………………」  アキラは何もいへなかつた。まつたく夢想だもしなかつた母の姿に、彼は神經がしびれて終つたのだ。彼はバタリと電銃を落した。 「お、お母さま!」  彼の手はセキの胸元に伸びた。 「………………」  セキは力の限りアキラの手をかき寄せた。 「お、お母さま!ぼ、ぼくは初めて人生を訂正するものゝ力を見ました!」  〃おゝ!吾等の人生は訂正される!憎しみも、怒りも、嘲りも、罵りも----一切の邪心を洗ひ拂つて、聖く殉情な母は吾等に與へられた!!〃  二人は長い間抱擁した。つめたい實驗室に訪れた春だつた。  しかし間もなく彼はシノブの屍を眺めて、さツと、雙頬の色を失した。 「ぼ、ぼくは人を殺したのです。ぼくの仕亊は罰しられました!人間の化學は、所詮----眼に見えぬものゝ力には及びません! ぼ、ぼくは處決します! しかし、ぼくは滿足です………。」  アキラは靜かに、その足の右側に落されている電銃を慄へる手に握りしめると、影繪のやうな足どりで、寂しい姿を力なく實驗室へと引きずつた。 「お待ち!」  セキはアキラを止めた。  そして電話でタキ・ハルキ博士を呼んだ。     × 「ハナド!」  シノブの身體を見た博士の顏は明るかつた。 「大丈夫! この人は救かります。この人の神經はまだ死んではゐない!」 「博士! ほんとうでせうか?!」  思はず、アキラは叫んだのだ。 「ハヽヽ」  タキ博士は哄笑した。 「お若い科學者、あなたはキカイの暴君ではあるけれど、人間の生命の前では、わたし----タキの下僕に過ぎません………。」  まつたく、精鋭な科學の力も、極度に進歩した醫術には適はなかつた。  博士は冗談半分な言葉を撤きながら、更生術を始めた。  間もなく----。  博士の言葉は裏切られなかつた。  デスクの上の屍は、再び飛び散つた生命を肉體に宿して、今迄蒼白く血潮を失つた唇に、赤い燃えるやうな血潮が巡々と動いた。  〃靈を裁くことは赦されない!だが、靈を護り、靈の成長にのみ人間の全能は赦される!〃  靈は解決した!アキラはほツとしてタキ博士の顏を見たのだ。  博士はやつぱり微笑んでゐた。  その微笑みは、此の年少な科學者の夢想を憫れむ----といふよりは、キカイの暴君に對して捧げる老人らしい愛嬌であつた。  タキ博士の言葉に寸分の狂ひはなかつた。博士が去つて間もなくシノブの意識は更生した。  瞳は輝いた。 「おゝ!」  アキラは思はずシノブの胸に雙手を伸してぐツと、新しい歡喜の力で抱きしめた。 「ハナド」  アキラの首筋に、今迄だらりと埀れてゐたシノブの手が卷き着いた。 「ハナド、あたしをどんな女に創造した? あなたの好きなニツポン娘?!」 「そうです! 新しい人生に生きる貴女はニツポンの女性! 貴女は一九八〇年の踊子ではありません。ハナドの妻! やがてはハナドの子の優しい、つつましい母といふ名で貴女は呼ばれます!」 「嬉しい!」  シノブの唇は無意識にアキラの唇に押し着けられた。初めて彼等の愛と抱合は赦された。  ふ----とシノブの眼にセキの姿が映つた。むつくりとシノブは身を擡げた。 「ハナド、あの人は?」 「お母さまです!お母さまです。しかもニツポンのお母さまになつて下さいました!つゝましく優しく人生の苦惱を子のために生きるニツポンの母を讚美て下さい!」 「ま! あたしのお母さま!」  シノブはデスクから飛び降りてセキの前に馳け寄つた。二人はわけもなく抱き合つた。  ----と。  突然! 亂れた人の足音が、この研究室になだれ込んだ。勞働者だ。その無數の眼は怒りと憎惡に燃えてゐた。  無論指揮するものはシラ・ソウタであつた。 「騒々しい! 何亊だ!?」  アキラはその眼を反射的に叱責した。 「何んでもない、無線電力會社を己れ達の手に返すのだ!」 「そうだ! 返せ!」 「己れ達の生活を返せ!」 「……………」  アキラは唇を噛んだまゝ、ぢツと彼等を睨めてゐた。彼等のために石を投げられた父の怨魂が、本能的にアキラの神經を鋼鐵のやうな冷たさにかためた。 「ハナド!」  ぢり!と又一歩、アキラに迫つたシラの巨手は、不意に伸びて肩先に落ちた。  慄えるやうな殺氣が空内を重く暗く沈めたのだ。  ----この時。 「待て!!」  室内の空氣を割つて驅け込んだジユンが、狼の眼を潛つてシラの巨手に卷き着いた。 「ハナド! シラ!き、君達の惡夢はまだ醒めないといふのか!?、ハナド!や、殺られたぞ! 無線電力會社のキカイの祕密をねらつてゐる外國のスパイの魔手が、あのミムラ頭取を殺つて終つたのだ!!」 「え!?」  驚きの聲はアキラとシラと同時だつた。  ジユンは絶叫した。 「冷靜な頭で考へて見ろ。君達は僅かな感情で爭つてゐるすきに、敵は君達の權益を、生活を、否!日本を奪つて終ふのだ! 考へて見ろ! 己れ達の祖先は然える愛國の血によつてこの日本を建設した! その殉國の魂が----大和魂が、もう君達の胸の奧から消え失せたといふのか?!」  ジユンの言葉は火のやうに吐き散らされた。今迄、ヂツと唇を噛んで感情の渦を抑へてゐたアキラは、不意に確りとソウタの手を握りしめた。 「シラ!僅かな私情に囚はれて君達を憎んでゐた僕の心は間違つてゐた!今迄の僕を赦して呉れ給へ。僕はあの無線電力會社を君達の手に開放する!」  アキラの瞳はさん/\と燃えた。 「さうだ!」  默つて顏を伏せてゐるソウタに代つて、ジユンは握られてゐる二人の手を更に握つた。 「お互ひに一致協力!祖國のために、今迄の感情の一切を拾てゝ、行はう!」  ----その時。  大地と大空を震動して、怖ろしい爆音が人々の耳を刺した。 「あ!」  ジユンは卒倒せんばかりに驚愕して窓ぎはに驅け寄つた。ジユンに續いて人々は彼の背後を追つた。  窓を通して人々の眼に怖ろしい光景が映つた。 「ざ、殘念だ!!無線電力會社がスパイの手で爆破された。」     ×  無線電力會社の爆破は人々の胸に、更に深刻な傳統の血----大和魂の國民精神を湧き立たせた。  莊重な永い沈默が續いた。 「諸君!」  突然ジユンは人々に向つてかう叫んだ。 「怖ろしい魔手は、完全に僕達の權益と生活を蹴り飛ばした!しかし、そのために僕達は、更に大きい心の眼醒めを與へられた。 今こそ僕達は完全に過去の權益と感情を捨て去ることが出來たのだ、諸君!協力一致、健康な握手から、ほんたうの平和と權益を生み出さう!我等の科學者、 ハナド・アキラは更に偉大な無線電力機を僕達のために提供して呉れるに違ひないのだ!さうして祖先の地、日本に新しい繁榮を築く勝利の日が來るのだ!」  ソウタが叫んだ。 「己れ達の血潮から祖先への信仰と殉國の大和魂を奪つたキカイの生活を叩き潰せ!さうして新しい大和民族のキカイの生活を建設しよう!そのリーダーであるハナド・アキラを、あらためて己れ達は讚美するのだ!」  アキラが答へた。 「ありがたう!僕は誓つて、諸君の期待に酬いよう、僕には強い自信がある!」 「ブラボー!!」 「ハナドアキラ、ブラボー!」 「大日本帝國萬歳!」  誰が歌ひ始めたか、莊重な國歌 「君が代」が涌然と歌ひ出された。人々は口を揃へて高く/\歌つた。  アキラはシノブと母をしつかりと抱へて、三人とも歌に合せて歌つた。                             ----終り----  End  底本::   紙名:  大阪朝日新聞 夕刊   発行:  昭和五年七月二十日〜十一月八日  入力::   入力者: 新渡戸 広明(info@saigyo.net)   入力機: Sharp Zaurus igeti MI-P1-A   編集機: IBM ThikPad s30 2639-42J   入力日: 2003年7月16日 - 2003年9月11日  校正::   校正者: 大黒谷 千弥   校正日: 〜2003年09月18日  $Id: gc.txt,v 1.12 2005/10/25 04:39:53 nitobe Exp $